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敵味方に分かれても「絆」は不滅!呉のNo.2・諸葛瑾
2017.01.20

上永哲矢の「三国志、歴史を変えた決断」第43回

敵味方に分かれても「絆」は不滅!呉のNo.2・諸葛瑾

著者 上永 哲矢

 諸葛亮(孔明)には、7歳年上の兄がいた。その名を諸葛瑾(しょかつきん)という。兄弟ともに優れた人物だったが、「軍師の代名詞」ともいえるほどの知名度を持つ弟に比べ、兄のほうは一般的にあまり知られていない。

 この関係は、わが国でいうと真田幸村(信繁)真田信之の兄弟に似ている。信之は明治時代まで続いた松代真田家の礎を築いた名将だったが、どうしても大坂の陣で華々しい活躍を遂げた幸村の陰に隠れてしまいがちだ。「大変な弟を持つと苦労するよ」と苦笑する当人らの声が聞こえてきそうだが、今回紹介する諸葛瑾という人物も十分に有能であり、弟にひけをとらぬ忠臣だった。

 

孫権の情に訴え、同僚の命を救う

 当時の中国の都、洛陽からかなり東に位置する徐州(じょしゅう)。そこに諸葛氏の家はあった。西暦174年に生まれた諸葛瑾は、若い頃に都へ出て勉強に励み、深い学識を身につける。学びを終えた諸葛瑾は故郷へ戻ったが、故郷の徐州は曹操の侵攻によって荒らされ、弟の諸葛亮たち家族は、荊州(けいしゅう)へ逃れていた。諸葛瑾は取り急ぎ、徐州のすぐ南の揚州(ようしゅう)へと逃れ、そこに腰を落ち着ける。こうして兄弟は離ればなれになったのである。

 西暦200年ごろ、諸葛瑾はその揚州の統治者である孫権に仕えた。しかし、謙虚かつ温厚な性格だったため、最初は目立たなかったようだ。それを象徴するエピソードがある。酒グセが悪いことで有名だった孫権は、ある宴席に驢馬(ロバ)を連れて来させ、その頭に「諸葛子瑜」(しゆ)と書いて大笑いしたことがあった。「子瑜」とは諸葛瑾の字(あざな=通称)である。面長だった諸葛瑾を驢馬にたとえたというのだが、本人が腹を立てた様子もない。両者の間柄は相当に親密だったのだろう。

 またある時、同郷の将軍のひとりが孫権の怒りに触れ、処刑されそうになった。群臣たちは口々に助命を懇願したが、孫権は頑として聞き入れない。そんな中、一人だけ黙ったままでいた諸葛瑾。孫権に「なぜ黙っている?」と訊ねられ、意を決したかのように口を開く。

 諸葛瑾は、その将軍の故郷が壊滅したこと、自分も同じ境遇であったこと、いまや2人とも孫権に厚情を受け感謝していることなどを滔々(とうとう)と述べ、その上で「彼(将軍)を正しく導いてやれず、私には言うべき謝罪の言葉が見つからないのです」と結んだ。孫権は感銘を受けたのか、「そなたに免じて許そう」と言って将軍の処刑を取りやめた。

 常々、孫権に対しては強い調子で戒めるようなことはせず、たとえを出してから同意を取り付けたという諸葛瑾。酒グセが悪く、激昂しやすい主君の性格を十分に察していたのだろう。

 

絶大な信頼を得て、呉のナンバー2へ

 208年、曹操の大軍勢が揚州へと迫ってきた。「赤壁の戦い」開戦である。それに際し、弟の諸葛亮が劉備軍の使者として、同盟締結のために孫権陣営を訪ねてくる。兄弟は予期せぬ形で再会を果たしたのだ。諸葛亮は… 続きを読む… 続きを読む

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上永 哲矢

上永 哲矢

歴史著述家・紀行作家。日本の歴史、および『三国志』をはじめとする中国史の記事を多数手がけ、各種雑誌やWEBサイトに寄稿、連載を持つ。全国各地の史跡を取材し、城や温泉にも造詣が深い。著書に『三国志 その終わりと始まり』(三栄書房)、『偉人たちの温泉通信簿』(秀和システム)など。神奈川県出身。

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