曹仁(そうじん)といえば、小説『三国志演義』で描かれているように「諸葛亮のやられ役」とのイメージをお持ちの方も多いかもしれない。だが、正史に見る曹仁はそのような凡将ではない。なにしろ、その武勇は「張遼をも凌ぐ」と評されていた猛将であり、魏国の軍事をつかさどる総責任者にまで昇った人物なのだ。

 

ダメ兄貴が曹操のもとで千人隊長となる

 曹仁は曹操より13歳年下の親戚にあたる。互いの祖父が兄弟同士という関係だった。曹操の父は養子であったため血のつながりはないが、夏侯惇(かこうとん)や曹洪(そうこう)と同じく血縁武将として、曹操に終生忠節を尽くした将である。

 曹仁は若い頃、慎みがなかった。武芸ばかりを好む「やんちゃ坊主」であったようだ。10代の頃に父親が亡くなるが、その頃には家を飛び出していたため、弟の曹純(そうじゅん)が家督を継いだという。だらしない兄貴に対し、真面目で慎ましい弟という兄弟像が垣間見える。だが、時は乱世。そんなダメ兄貴にも活躍の場が巡ってきた。

 西暦190年、曹操や袁紹たちが決起し、董卓(とうたく)討伐の軍を発した。この時、22歳になった曹仁は1000人の若者をかき集め、曹操のもとへ馳せ参じる。旗揚げしたばかりで将も兵も少なかった曹操軍にあって曹仁の働きはめざましく、みずから先頭に立って多くの敵兵を討ち、また騎兵を率いて先陣を切るなど、子供のころから鍛え上げた武勇を遺憾なく発揮する。

 197年、曹操軍は張繍(ちょうしゅう)との戦いに敗れ、典韋(てんい)が戦死するなどして全軍が動揺し、沈みきってしまった。だが、そんなときでも曹仁だけは変わらず、軍勢を叱咤激励する。その姿に曹操はじめ諸将は勇気づけられ、反撃に転じて張繍を打ち破った。ムードメーカーに徹し、曹操軍に勝利を呼び込んだのだ。

 

包囲網から味方を救い出し、奇跡の生還を果たす

 曹仁の成長ぶりを示す好例が205年、壺関(こかん)の戦いだ。壺関を包囲した曹操は、「城を落とせ、ひとり残らず生き埋めにせよ」と号令したが、敵の防備は堅く、一向に落ちる様子がなかった。曹仁は「決死の覚悟を決めている敵を攻撃すれば味方も損害を受けます。包囲を緩め、ひとつだけ退路を示してやるべきでは?」と耳打ちした。曹操がそれに従うと、… 続きを読む

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上永 哲矢

上永 哲矢

歴史コラムニスト、紀行家

日本史・三国志を題材に各種雑誌やウェブに連載記事多数。歴史取材の傍ら、城や温泉に立ち寄ることが至上の喜び。著書に『高野山 その地に眠る偉人たち』(三栄書房)、『三国志 その終わりと始まり』(三栄書房)、『ひなびた温泉パラダイス』(山と溪谷社)。神奈川県横浜市出身。公式サイト:http://kakutei.cside.com/job/

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