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支持率ゼロの「袁術帝国」を築いて自滅。迷君・袁術
2016.01.22

上永哲矢の「三国志、歴史を変えた決断」第31回

支持率ゼロの「袁術帝国」を築いて自滅。迷君・袁術

著者 上永 哲矢

 曹操の子・曹丕(そうひ=詳しくは第30回)が魏の皇帝となって「後漢」を滅ぼしたのは西暦220年。それより23年前、後漢に乱立した群雄で「皇帝」を称す人物が存在した。それが袁術(えんじゅつ)という男だ。

 

兄・袁紹とともに宦官を皆殺し。朝廷を糺そうとするが……

 袁術は、とにかく評判の悪い人物である。その悪評は董卓(とうたく)にも劣らないが、董卓のように際立った武勇を発揮する機会もないため、長所を探すのに苦労する人物ではある。唯一ともいえる特長が、名門出身のエリートであったことだ。

 腹違いの兄(従兄ともいわれる)、袁紹(えんしょう)ともども袁家の御曹司であった彼は、何不自由なく育った。袁紹は優れた容貌を持ち、人当たりが良かったため多くの人に支持されたのに対し、袁術は容姿も人柄も兄に劣り、人気も今ひとつ。袁術は劣等感から、兄の人気や活躍にケチをつけ、対抗心を燃やすようになった。

 そんな袁兄弟だが、都・洛陽を宦官(かんがん)が牛耳っていたころ、その討伐のため手を組み協力しあったことがある。宦官とは皇帝の身の回りを世話するため、去勢された男性官僚のことだ。皇帝に気に入られ、高級官僚となり絶大な権力を握った宦官も多数いた。袁紹や袁術ら、一般の官僚にとって宦官は忌むべき存在だったのだ。

 西暦189年のこと。袁術らの上司であった大将軍・何進(かしん)が宦官グループに宮殿内で殺されてしまった。袁術らは即断即決、「かたき討ち」とばかり宮殿に火を放ち、出てきた宦官どもを捕えて処刑、一網打尽にする。ヒゲのない者は宦官と見なし、片っ端から殺した。あわてて服を脱ぎ、… 続きを読む… 続きを読む

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上永 哲矢

上永 哲矢

歴史著述家・紀行作家。日本の歴史、および『三国志』をはじめとする中国史の記事を多数手がけ、各種雑誌やWEBサイトに寄稿、連載を持つ。全国各地の史跡を取材し、城や温泉にも造詣が深い。著書に『三国志 その終わりと始まり』(三栄書房)、『偉人たちの温泉通信簿』(秀和システム)など。神奈川県出身。

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