古今東西、「2代目」は何かと大変である。偉大すぎる創業者の陰に隠れがちになるからだ。徳川幕府の第2代将軍・秀忠、足利幕府の2代目・義詮(よしあきら)が代表例で、3代目にあたる徳川家光足利義満の知名度が2代目のそれより高いことを見ても分かるように、3代目への「つなぎ」と見られることも多い。また秦(しん)の始皇帝の子・胡亥(こがい)のように、2代目で滅びてしまう政権も目立つから、損な役回りともいえる。

 曹操が築いた曹魏(そうぎ)政権の2代目・曹丕(そうひ)は、一般的な知名度だけでいえば意外に高い人物かもしれない。中国の三国時代において、蜀の皇帝・劉備や呉の皇帝・孫権とともに「魏の初代皇帝」として教科書に載ることも多い。世界史を学んだ人であれば一度は目にする名前ではないだろうか。

 

父を差し置いて、歴史の教科書にも載る人物

 曹丕は曹操の長男ではなく三男だったが、兄2人が早世したので嫡男(跡取り息子)となる。西暦197年ごろ、11歳にして父・曹操の出征にも付き従うなど英才教育を施された。文章をよく書いたほか、馬に乗ったまま矢を射る「騎射」や剣術も得意とする文武両道の将に育ったという。

 しかし、曹操はなかなか曹丕を後継者に指名せずにいた。曹丕はそれを不安に思いつつ育ったようだ。

 彼には弟が何人かいた。すぐ下には、素手で虎と戦えるほどの武勇を持つ曹彰(そうしょう)がいて、その下には曹操が惚れ込むほどの詩才と文才の持ち主である曹植(そうしょく)がいた。2人とも曹操に可愛がられ、後継者候補として頭角をあらわすようになったが、それぞれ一芸に熟達する弟たちに比べ、曹丕はどちらの才も彼らに及ばなかった。「自分は本当に父の後継者になれるのだろうか」と危惧したとしても無理はなかろう。

 217年、はたして後継者争いが起きた。曹丕最大のライバルとなったのは、詩文の才に優れた5歳下の弟・曹植だ。曹丕と曹植の当人同士はさほど険悪でもなかったが、それぞれを支持する臣下同士が対立し、曹操領内には殺伐とした空気が漂い始める。

 この争いに終止符を打ったのは曹操の参謀・賈ク(かく)のひと言だ。彼は後継者争いに加わらず黙って事態を見守っていたが、曹操に助言を求められると、… 続きを読む

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上永 哲矢

上永 哲矢

歴史コラムニスト、紀行家

日本史・三国志を題材に各種雑誌やウェブに連載記事多数。歴史取材の傍ら、城や温泉に立ち寄ることが至上の喜び。著書に『高野山 その地に眠る偉人たち』(三栄書房)、『三国志 その終わりと始まり』(三栄書房)、『ひなびた温泉パラダイス』(山と溪谷社)。神奈川県横浜市出身。公式サイト:http://kakutei.cside.com/job/

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