三国志は、魏・蜀・呉という3つの国の争いをつづった歴史書だ。その中で、魏の曹操と蜀の劉備はライバルのような関係にあり、いわば武田信玄と上杉謙信の関係にも似ている。しかし、三国志はこの両者に留まらない「第三勢力」の存在が、展開を面白く複雑なものにしているのだ。

 その「第3の男」が、呉の孫権(そんけん)である。曹操や劉備に比べて存在感が薄く、地味な存在と思われがちだ。しかし、三国志をよく読めば決してそんなことはない。噛めば噛むほど味わい深い人物である。

 

父と兄を相次いで失い、3代目として立つ

 孫権が呉(中国東南部)のリーダーになったのは西暦200年、19歳の時。兄・孫策が暗殺者の手にかかって落命したため、急遽その跡を継ぐことになった。この8年前(西暦192年)には、父・孫堅(そんけん)が、劉表軍との争いで戦死していた。よって父・兄の後に出てきた3代目という意味の「第3の男」でもある。

 まだ10代のうちに父と兄を相次いで失った孫権は、大きなショックを受け泣き伏してしまった。いつまでも慟哭を続ける孫権を見て、「これで国を治めて行けるのか?」と将来を危ぶむ家臣も多かったようである。しかし、そんな彼の手をとった者がいた。兄の参謀長を務めていた張昭(ちょうしょう)だ。張昭は孫権を立たせて馬に乗せ、軍営を視察させた。そうするうちに当主としての自覚が芽生えたのか、孫権は涙を忘れ、政務に打ち込むようになる。

 その後、孫権は張昭をはじめ周瑜(しゅうゆ)甘寧(かんねい)魯粛(ろしゅく)など有能な家臣たちにも助けられて成長し、政権を安定させていった。そして8年後の208年には西の荊州(けいしゅう)を攻め、劉表軍の将軍・黄祖(こうそ)を討つ。父・孫堅はこの黄祖との戦いで命を落としたため、黄祖討伐は兄の代からの悲願だった。仇討ちに成功した孫権は名実とも呉のリーダーになったのである。

 

机を叩き斬ってみせた究極の決断

 同年、中国大陸のほぼ北半分を制圧した曹操が南下を開始し、孫権の領地へ迫ってきた。その途中、まっさきに標的となった劉備は敗走して孫権に助けを求める。それを知った曹操も孫権に対し「水軍80万を整えてそちらへ行く。呉の地で狩りをいたそう」という手紙を送りつける。文面は穏やかだが、大兵力を喧伝して暗に降伏を促す事実上の脅迫状だ。世に名高い「赤壁の戦い」の幕開けである。

 心中、「絶対に屈するものか」という思いを抱いた孫権だったが、… 続きを読む

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上永 哲矢

上永 哲矢

歴史コラムニスト、紀行家

日本史・三国志を題材に各種雑誌やウェブに連載記事多数。歴史取材の傍ら、城や温泉に立ち寄ることが至上の喜び。著書に『高野山 その地に眠る偉人たち』(三栄書房)、『三国志 その終わりと始まり』(三栄書房)、『ひなびた温泉パラダイス』(山と溪谷社)。神奈川県横浜市出身。公式サイト:http://kakutei.cside.com/job/

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