劉備の軍師が諸葛亮なら、曹操にとっての軍師といえば荀イク(じゅんいく、イクは「或」の斜め線が3本)に他ならない。諸葛亮(軍師中郎将など)と違い、史実において「軍師」と名乗ったことはないが、その事績を見るに間違いなく、唯一無二の名軍師であったと断言できる。
常に曹操の留守を預かった「代行監督」
若いころ、漢の都・洛陽(らくよう)で役人をしていた荀イクは、「王佐(おうさ)の才を持つ」と評されていた秀才だった。王佐、つまり「王」を補佐して天下に大事を成すだけの才能がある、という意味だ。
彼が最初に仕えたのは冀州(きしゅう)の袁紹(えんしょう)だった。袁紹は河北(黄河の北岸)に広大な領地と強大な兵力を持ち、兄弟や同郷人が数多く仕えていたため、それに従ったのである。しかし、ほどなく荀イクは袁紹のもとを去り、曹操に会いに行く。
「袁紹の人物を見限った」と正史には記されるが、自身の「王佐の才」を自覚していた荀イクが「ここでは自分の才が発揮できない」と判断し、働き場を求めて曹操のもとへ行ったと考えるほうが面白い。荀イクが河北へ行った時、すでに袁紹の配下には大勢の有能な参謀がいたからである。
彼を迎えた曹操は「我が子房(しぼう)が来た」と喜んだ。子房とは前漢の劉邦を補佐した張良の字(あざな)である。こうして働き場所を得た荀イクは、曹操の片腕となって活躍を始める。
郭嘉や荀攸(じゅんゆう)のような戦場で活躍する軍師とは異なり、荀イクは主に曹操の留守を預かることが多かった。いうなれば曹操が出陣している間、その政務を代行していたわけで、代行監督といった存在だった。
西暦194年、曹操が東方の徐州へ出陣中、陳宮や呂布が本拠地で乱を起こすと、荀イクは冷静に対応し、夏侯惇(かこうとん)に指示を与えてこれを鎮圧している。こうしたことが重なり、曹操は出征中でも荀イクに手紙を送り、軍事と国事に関するすべてのことを相談するほどに信頼していたという。
つまり、彼の役割は軍全体が進むべき進路を見極め、的確に指示を与え導くというもので、いわば真の意味での軍師だったのだ。
献帝の保護、官渡決戦の勝利をお膳立て
196年、曹操が献帝(漢の皇帝)を迎え入れたのも荀イクの助言を受けてのことだ。戦乱を脱し、洛陽に逃れていた献帝を、荀イクは「ただちに迎え入れ保護すべきです」と献策する。… 続きを読む