生没年
伊達政宗
生: 永禄10年(1567年)
没: 寛永13年5月24日(1636年6月27日) 享年70
片倉小十郎
生: 弘治3年(1557年)
没: 元和元年10月14日(1615年12月4日) 享年59
幼い頃から培われた2人の絆
奥州の覇者・伊達政宗とその名補佐役として知られる片倉小十郎(景綱)は、固い絆で結ばれた主従だった。
政宗の父・輝宗の小姓として伊達家に入った小十郎が政宗の守役に選ばれたのは、政宗が9歳、小十郎が19歳の時のこと。政宗は幼い頃、疱瘡で右の眼球が飛び出すという奇病に苦しみ、内気な性格となっていたが、小十郎はその眼球を小刀で一気にえぐり取ってしまう。これを契機に、政宗は活発で文武両道に秀でた少年へと変貌を遂げたという。
以後、政宗は小十郎のことを厚く信頼し、小十郎も側近中の側近として政宗に忠節を尽くした。自由奔放で危ない橋を渡る政宗の窮地を冷静な判断力で幾たびも救ったという。「政宗のあるところ必ず小十郎あり」といわれた小十郎の働きで、政宗は奥州南部の150万石余を手にしたのである。

小十郎の活躍といえば人取橋の戦いでのエピソードがその最たるものだろう。この戦いにおいて、伊達軍は圧倒的に劣勢だった。佐竹・蘆名氏ら連合軍がついに政宗のいる本陣にまで押し寄せてきたとき、小十郎は政宗に向かってこう叫んだという。
「小十郎!ひるむな!政宗がここにおる!」
つまり小十郎は政宗のふりをすることで、彼の身代わりとなったのである。小十郎のこの咄嗟の機転により、間一髪のところで政宗は事なきを得た。
小十郎の活躍は合戦場だけにとどまらない。天正18(1590)年、天下統一に王手をかけていた秀吉の度重なる上洛要請を無視し続けた政宗が、秀吉の逆鱗に触れたことがあった。そのときも、小十郎は大軍を前に無謀な抵抗を行う愚を諭して、秀吉が陣を構える小田原城に参陣するよう説得。政宗はその忠告に従い、秀吉の赦免を勝ち取って伊達家存亡の危機を脱したのだった。
なお、政宗は秀吉に謁見するとき、髪を短く切り、甲冑の上にしろ朝の陣羽織という死に装束で現れたという。政宗にはこのように派手なものを好む一面があった。文禄元(1592)年の秀吉による朝鮮出兵に従軍した際、黒い漆塗りの具足に三日月形の前立物という絢爛な軍装の「伊達男」ぶりに、京中が驚いたとされる。
大往生を遂げた天下の副将軍
小十郎の知勇にすぐれた能臣ぶりは評判となり、秀吉や徳川家康から大名に取り立ててやるという誘いを受ける。しかし、… 続きを読む