生没年
生:天文15年11月29日(1546年12月22日)
没:慶長9年3月20日(1604年4月19日) 享年59
秀吉がもっとも恐れた懐刀
「黒田官兵衛」の通称でも知られる武将・黒田如水。彼は嫡子・長政に宛てた遺誡の中で、自身を「天下無双の博奕(ばくち)上手」と評した。その自負通り、天正3(1575)年に主君・小寺政職を説いて信長の陣営に参じて以後、彼は秀吉の軍師として頭角を現す。
如水は非常に頭の切れる武将で、備中高松城(岡山県)の戦いで付近を流れる足守川をせき止めることで城を水没させる「水攻め」のように、一見突拍子もない作戦で軍を勝利へと導いている。奇妙な兵法は秀吉軍の持ち味だが、その影には如水の存在があったのだ。
如水の智謀と胆力が最も発揮されたのが、本能寺の変後の対応である。信長討ち死の報せを最初に受けた如水は、使者に他言を禁じてから秀吉に手紙を見せた。茫然自失となった秀吉に、如水は「ご運が開けるときがついに来たのです」と囁いて我に返らせ、今後の作戦を進言する。そして見事に中国大返しを成功させた。
この中国大返しは高度な情報操作が肝だったといわれている。本能寺の変の後、織田軍には様子見をしたり、明智光秀に寝返る武将が多くいた。しかし、光秀には信長を討ち取った確信こそあれ、信長の首を取ったわけではないのでその死を証明することができない。
そこで、秀吉は「本能寺を討たれこそしたが信長もその息子・信忠も無事生きている」という情報を拡散。これにより多くの武将が光秀から離れていく。さらに秀吉はこの時抗争中であった毛利氏との間にすみやかに和平を結ぶ。この和平交渉を行ったのも如水であった。軍勢を強めた秀吉軍は仇討ちのため一気に京へと攻め入り、明智光秀を討ち取ったのだった。
こうして秀吉の天下を切り開いた如水であったが、その器量を秀吉は怖れてもいた。天正17(1589)年、44歳とまだ壮年であった如水は突然隠居を願い出て、長政に家督を譲る。表向きの理由は「悠々自適の生活を送りたい」というもの。しかし、この前に秀吉は「わしの死後は、いや、生前であっても奴がその気になれば天下は如水のものになるだろう」と洩らしており、これを伝え聞いた如水が家門の禍を避けようとしたのではないかともいわれている。
大乱後の見事な移り身
一時は引っこめた博打好きの色気が再びもたげたのは、関ヶ原の戦い直前の混乱時のこと。日本中の武将が東軍につくか西軍につくかで悩む中、如水は… 続きを読む… 続きを読む