生没年
生:大永2年(1522年)
没:天正19年2月28日(1591年4月21日) 享年70
武士にひけをとらぬ立派な切腹
春の空が荒れていた。雷鳴がとどろき、大粒の雹が地面を打った。親友である大徳寺の古渓(こけい)和尚に末期の一句を聞かれ、「白日晴天怒電走」と答えた、その心境のままの天候だった。
天正19(1591)年2月28日、聚楽屋敷の一室。千利休は前田利家らからの助命嘆願の勧めを断り、秀吉の切腹の命を静かに受け入れた。その直前、3人の検使にも茶を振る舞ったとされる。
70歳の老いた自分の腹に脇差を突き立てる利休。そのまま腹を十文字にかき切って、ひきずりだした腸を自在鉤(じざいかぎ)に吊るしたという。囲炉裏は赤く染まり、茶室には血の臭いが立ちこめた。
誰もが知る通り、利休は武士ではない。「侘び茶(わびちゃ)」を大成した、立派な茶人である。しかし、利休は茶の湯の弟子でもあった蒔田淡路守の介錯によって見事な切腹を遂げた。助命を決して請わなかったことを含め、その潔さは並の武士以上のものだったであろう。
利休の切腹が終わると、次の間に控えていた妻の宗恩(そうおん)は夫の亡骸に綾の白小袖をかけたという。利休の首は蒔田らにより秀吉のもとへ届けられた。秀吉はその首を実際に見ることもせず、処刑の原因となった利休木像に踏みつけられる格好で一条戻橋に曝した。一説によれば、この利休の首を見るために大衆が毎日列をなしたという。… 続きを読む