生没年
生:天文11年12月26日(1543年1月31日)
没:元和2年4月17日(1616年5月22日) 享年75
唯一の懸念であった豊臣家を葬る
元和2(1616)年初春、徳川家康は駿府(静岡市)から4里ほど離れた現・静岡県藤枝市の原野で、鷹狩りに興じていた。75歳を迎え足腰も弱くなっていたが、若年より楽しんだ鷹狩りだけは止められない。青空を舞う鷹を眺めながら、家康はしみじみと呟いた。
「これでようやく、天下泰平がなったか」──
振り返れば、家康の人生は苦難の連続であった。生き別れた母の顏は知らず、わずか6歳で人質となり、金で織田家に買われた。三方ヶ原の戦いや伊賀越えでは命を危険にさらしている。信長・秀吉に頭を下げ忠誠を尽くす一方、権謀術数の中に身を置いてもきた。そうして、ようやくつかんだ天下である。
徳川幕府を開府したのちも、彼の苦労は絶えなかった。獅子身中の虫ともいうべき豊臣秀頼が大坂城に残っていたからだ。
彼は10年に渡る月日を待ち、策謀をめぐらし、時が来たと見るや一気呵成に豊臣家を攻めた。そして遂に豊臣家を滅亡させたのである。駿府の地で鷹狩りに興じる、1年前のことだ。最大の障壁を取り払い、ようやく安堵の日々を得た老将は、深い満足感に浸っていた。
鯛のてんぷらが発病の原因に
元和2年1月21日、鷹狩りに同行していた豪商の茶屋四郎次郎が、当時流行していた、ごま油で揚げたてんぷらの話をした。家康はさっそく休泊所で鯛のてんぷらをつくらせ、舌づつみを打ったのである。
ところがその夜中、… 続きを読む