このようにヨーロッパでは、データを「市民のもの」と定義したうえで、市民がよりよい社会のために、自らデータを提供する文化が形成されつつあります。
こうした文化は、日本でもDXが実現できるのでしょうか?武邑氏は、日本と欧州ではそもそもDXの考え方に大きな違いがある点を懸念しています。
「久しぶりに日本に帰国した際、タクシーのタブレットで『従業員のPCを可視化して仕事を効率化する』という広告を見ましたが、この表現には度肝を抜かれました(笑)。欧州ではありえない仕組みです。導入すれば、企業側がGDPRで処罰されてしまいます。世界と日本では、DXの考え方に大きな差異があるように思います」
ただし武邑氏は、こうした欧州と日本のDXに関する考え方の違いは一見ネガティブには見えるものの、ポジティブに転換する方法もあるといいます。
「たとえば日本の山間部の農村には、棚田という水田の水を皆で分配する仕組みがあります。この考え方は欧州にはないもので、ドイツでは非常に高い関心が持たれています。日本は欧州のように個人のプライバシー保護だけではなく、棚田のようにデータを共有する点に強みを持たせるような、文化の違いを逆に活かしていくことも必要と思います。
欧州の友人たちは、日本文化の『間の概念』に関心を持っています。この「間」とは、時間と空間という2つの意味を含んでいます。“6畳の間”といえば空間ですし、“間が悪い”といえばタイミングです。この時間・空間を含む概念は、欧州には存在しません。
たとえば、カキを養殖する際には、海中のプランクトンを増やす必要がありますが、日本では20年以上前から、養殖業者がプランクトンを育てるために、海沿いにある森を育てています。このように海と森の境界の“間”を取ることが、これからのデータエコノミーやスマートシティでは重要になってきます。日本の勝機は、忘れられつつある“間の概念”を取り戻すことにあるといえるでしょう」
欧州の人々は、自分たちの文化から、スマートシティを生み出すことに成功しました。次は日本人が、日本の文化からデジタルの新たな価値を生み出す番といえるかもしれません。