日本オリジナルのファストフードといえば“立ち食いそば”。その中でも圧倒的な存在感を示すのが「名代 富士そば」だ。

 立ち食いそばといえば「早い、安い」が特徴だが、富士そばは「美味い」にも強いこだわりを見せている。茹で麺は一切使用せず、注文ごとにそばを茹で、冷水で締めてコシを出している。出汁は静岡県の焼津から直送したかつお節と、北海道の日高昆布を使って、店舗ごとに作っている。さらに、カツ丼や天丼などのご飯物も提供しており、店舗ごとにオリジナルメニューも用意されている。

 現在、都内を中心に、埼玉、神奈川、千葉を含む合計128店舗を数え、一日約7万食を売り上げる。2013年からは、新たな成長の柱として海外へも進出。台湾、フィリピン、シンガポールなどでフランチャイズ展開をはじめている。

 その富士そばを運営するダイタングループで会長を務めるのが、富士そば創業者の丹道夫である。丹はなぜ、立ち食いそばの一大チェーンを築くことに成功したのか。その背景には、丹の壮絶な人生があった。

 

義父との確執が東京行きの野心を駆り立てた

 1935年、名古屋で生まれた丹は、生後すぐ父が他界したため、母の実家がある愛媛県の西条市に移り住んだ。母は息子を育てるため、芸者として座敷に上がったが、そのうち山林調査を生業とする男性と所帯を持つことになった。

「再婚相手は60歳。母は40歳を超えていたので、子どもはできないだろうと思っていたそうです。ところが、弟が生まれました。義父の態度が変わったのは、その頃からでした」

 義父は躾と称して、丹に厳しく当たった。川に行って風呂の水を汲み、山に入って薪を拾うなど雑事をいくつも命じられ、弟の待遇と差をつけられた。いつの間にか勉強も手につかなくなり、高校に入学するも半年で中退。心配した知人から、青果店や油屋での丁稚奉公を紹介されたが、長くは続かなかった。

 こうした、田舎での鬱屈した思いが「都会で成功したい」という野心を駆り立てる。丹はある日、母に「東京に行かせてほしい」と頼み込んだ。

「中学時代の恩師から、東京の呉服屋を紹介するという話がありました。母は目に涙を浮かべて反対しましたが、私は東京へ向かいました。ですが、面接の結果は不採用でした」

 帰郷後も二度目の上京の機会を伺っていた丹は、母を説得し、再び夜行列車に飛び乗った。しかし、東京駅に到着したものの、仕事のあても行くあてもない。いざ一人ぼっちになると、急に不安が広がった。

 その時、夜行列車で向かいの席に座った女子大生のことを思い出す。女子大生は丹を心配し「何かあったら連絡しなさい」と電話番号を渡してくれた。丹は、彼女が住んでいる埼玉の大宮へ行ってみようと思い立った。ところが、列車を乗り間違えてしまい、たどり着いたのは福島県の湯本駅だった。湯本は温泉の名所で、丹は愛媛の道後温泉の賑わいを思い出した。

 「温泉街ならきっと仕事があるはず」と、湯本で炭鉱の仕事を見つけた丹は、黙々と土砂や砂利を運ぶ日々を送った。そこで刺青を入れた男たちが度々争いを起こす様子を見て、丹の脳裏に「男は学問を身につけなければならない」という母の言葉がかすめるようになり、会社に願い出て高校の夜間部に通った。

 卒業後、丹は東京の印刷会社に勤務するが、病に倒れ、愛媛に帰郷し療養する。回復すると、またも上京を夢見るようになる。見兼ねた母は、丹にそっと預金通帳を見せ「栄養学校へ通うなら何とかする」と、費用を工面してくれた。3度目の上京で栄養士の資格を取り、都内の公立病院で経験を積んだ後、料理学校の職員として勤務した。

 

こんな暮らしは、ずっと続くわけがない

 ようやく東京で落ち着いた暮らしを手に入れた丹だが、その矢先、母から義父の容態が悪いとの手紙が届き、再び愛媛へと帰った。義父がまもなく息を引き取ると、丹は「成功したいなら先祖は大事にしなさい」という知人の教えに従い、義父のために立派な墓を建てた。そして、母を連れて四度目の上京に旅立つ。

 「もう失敗は許されない」と意気込んだ丹は、まずは栄養学校の恩師の紹介で、鶯谷の給食センターに就職。そこで知り合った人から『独立するので手伝ってほしい』と声をかけられ、埼玉県の川口市で弁当屋をはじめた。

「川口市を舞台とした映画の『キューポラのある街』でも知られるように、当時は鋳物工場の景気がよく、結果として弁当屋は大当たりしました」

 その後、仕事仲間から不動産業への参入を誘われ、那須高原の別荘地の土地を売る会社を共同経営でスタートする。当時の不動産ブームの波に乗り、月商30億円、社員数1200人の大企業に成長した。

「当時の月給は500万円。給料袋が“立つ”んです。毎日ステーキを食らい、運転手付きの外車で移動し、夜な夜な銀座、赤坂、六本木の高級クラブで豪遊です。少し前まで金がなく、泊まる所さえない人間だったんですから、夢のような暮らしでした。

 ただね、一方では『こんな暮らしは、ずっと続くわけがない』と思う、冷めた自分もいたんです」

 

真夜中にそばを食べる人なんかいない?

 丹と立ち食いそばとの出会いは、そんなある日に訪れる。… 続きを読む

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丹 道夫(たん みちお)
1935年、愛媛県西条市に生まれる。東京栄養食糧専門学校卒業。4度の上京を経て埼玉県川口市弁当屋を開業し、その後不動産業にて月商30億円を売り上げるほどに成長する。1966年、渋谷、新宿、池袋、西荻窪にて 名代 富士そばを24時間営業にて展開。1972年、ダイタンフード株式会社を設立し、立ち食いそば業に専念する。その後も、名代 富士そば関連のグループ会社を増やして現在に至る。2018年2月時点で、グループ会社8社、国内128店舗。

ダイタンホールディングス株式会社(名代 富士そば)について
■ 事業内容「名代 富士そば」を展開するダイタングループの海外店舗展開や海外FC展開を行う純粋持株会社
■ 設立年月1985年7月29日(創業:1972年3月9日)
■ 本社所在地東京都渋谷区代々木1-36-1 オダカ ビル 3F
■ 資本金飲食業
■ ホームページhttp://fujisoba.co.jp/

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