田中 秀子(タナカ ヒデコ)
1960年東京都生まれ。山脇女子短期大学を卒業後、1982年博水社に入社。その後東京農業大学食品醸造学科に入学し専門課程で勉強。製造管理や新商品企画などを手掛け、2008年に三代目社長に就任。主な著書は「そうだ、私は社長なんだ!!小さな会社、酒とナミダの奮闘記」(TBSサービス)など。NPO法人の犬猫を救うボランティア活動など多彩な活動、趣味を持つ。
国民的割り材誕生のきっかけは、家族でのアメリカ旅行
「お酒をわるならハイサワー」というフレーズで馴染み深い、焼酎やジン、ウオッカなどさまざまな酒を割って楽しむ“割り材”を中心とした飲料を製造する博水社。同社は1928年に東京・品川区で田中武雄商店として創業。1930年にはラムネやみかんジュース・サイダーの製造を開始する。その後目黒区の住宅街に工場を構えて“まちのジュース屋”として地道な商売を続けてきた同社だが、戦後アメリカから飲料メーカーが日本に上陸すると、清涼飲料業界は前年比700%増と急拡大して大手市場の独占状態となった。都内に250軒あった中小飲料メーカーが軒並み倒産・廃業していくなか、同社は小さな商圏ながらも炭酸水や濃縮ジュースを製造し続けていた。
そうしたなか、二代目を継いだ当時の社長、田中専一が「ハイサワー レモン」を1980年に市場投入するや、“チューハイブーム”の波に乗って瞬く間に全国に普及していった。この大ヒット商品の誕生には、まだ学生だった娘の田中秀子も大きく関わっていた。
田中はこう振り返る。「ジュース以外の商品を開発しなければと、父はビールテイストの清涼飲料水のレシピを6年かけて完成したのですが、エッセンスやホップの入手先が急に倒産して新商品開発が暗礁に乗り上げたんです。そこで気分転換にと私と妹を連れてアメリカのロサンゼルスやサンフランシスコを旅行したのですが、向こうのカクテルの普及と種類の多さに驚きました。帰国後すぐに父は『日本のカクテルを作れる割り材を作ろう』と言って、ベースはジンやウォッカではなく焼酎で試作を開始し、最初に商品化したのがお酒の割り材としての『ハイサワー レモン』でした」
「ハイサワー」の商標登録は「輩サワー」。「わが輩がつくったサワー」という意味が込められているという。それは、自宅でも居酒屋でも、ハイサワーで自分の好きな酒を好みの濃さで割って飲むことができるという飲酒スタイルを象徴する名称だった。
会社の人たちの会話が“日本語”に聞こえない!
父親が切り盛りする博水社に田中が入社したのは、ハイサワーの増産に追われる1982年のこと。それまで専念していたクラシックバレエの道を、腰を痛めて断念したこともあり、2人姉妹の長女として短大卒業後に家業を手伝うこととなったのだ。
「昔は工場も目黒のこの場所(現本社所在地)にあって、飲料づくりから出荷まで親の仕事を間近に見ていたので、『まあできるよね』と高をくくっていました。でも、いざ入社してみると会社で働く社員達の会話が日本語に聞こえませんでした。『炭酸ガスの圧はいくつ?ボリュームは?』『ペーハー値と殺菌温度は……』など、それまでの自分の知識では到底理解することができませんでした。なにせ炭酸と言えば『シュワシュワしている!』ぐらいの認識でしたからね(笑)」
「このままではまずい」と危機感を抱いた田中は、… 続きを読む… 続きを読む
田中 秀子(タナカ ヒデコ)
1960年東京都生まれ。山脇女子短期大学を卒業後、1982年博水社に入社。その後東京農業大学食品醸造学科に入学し専門課程で勉強。製造管理や新商品企画などを手掛け、2008年に三代目社長に就任。主な著書は「そうだ、私は社長なんだ!!小さな会社、酒とナミダの奮闘記」(TBSサービス)など。NPO法人の犬猫を救うボランティア活動など多彩な活動、趣味を持つ。
株式会社博水社について | |
■ 事業内容 | ハイサワー・ジュースなど清涼飲料水製造・販売 |
■ 設立年月 | 1952年 |
■ 本社所在地 | 東京都目黒区目黒本町6丁目2番2号 |
■ 資本金 | 2,000万円 |
■ 従業員数 | 18名 |
■ 業種 | 各種割用炭酸飲料メーカー、清涼飲料メーカー |
■ ホームページ |
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