プロ野球の名指導者から学ぶ、部下の指導法(第2回)

自分を変えることでチームを変革させた野村謙二郎

2015.04.27 Mon連載バックナンバー

 「プロ野球の名指導者から学ぶ、部下の指導法」の第1回では、選手の自主性に任せる指導を行い、横浜ベイスターズ(現横浜DeNAベイスターズ)を監督就任一年目にして日本一に導いた権藤博について見た。

 しかし、プロ野球にせよ、ビジネスにせよ、権藤のように一年目から成功する者は少なく、多くは何度もの挫折を経験する。指導者はその時、自分のやり方を変えずに結果を求めるか、結果を残すためにやり方を変えていくかの二者択一に迫られる。

 プロ野球12球団で最も優勝から遠ざかり、低迷していた広島東洋カープを5年の在任期間中に16年振りの3位に導き、優勝に手が届くチームへと変貌させた前監督の野村謙二郎は、後者を選択した。

 それでは、野村は何を変えたのだろうか。

 

スパルタ教育によって育まれた才能 ~広島東洋カープの特殊な事情~

 野村は大分県佐伯市に生まれ、幼少期から父の厳しい指導の下で野球を始めた。地元の名門・佐伯鶴城高から駒澤大学へ進学後、1988年にドラフト1位で広島に指名されて入団し、2年目に定位置を獲得した。

 経歴だけを見ると、いかにも野球のエリート・コースを歩んだように見えるが、野村本人は自分はエリートではないと述べている。当時、球界で最も厳しいと言われた広島のスパルタ教育によって自分の能力が育まれたという意識が野村には強い。

 野村と同時期に活躍した広島の野手を見ると、ドラフト下位の指名選手が多い。1位には投手を指名することが多かったという理由もあるが、広島球団の特殊な事情も影響している。

 

 親会社を持たず、独立採算制の地方球団である広島は資金が豊富ではない。甲子園や大学・社会人で活躍する有望選手の獲得は困難で、育成によって選手の力を上げるしかなかった。それは現在まで変わらない球団の方針である。

 野村は「練習でできないことは試合でもできない」とよく口にする。厳しい練習で培われた野村の野球に対する哲学ともいうべき言葉である。

 

「優勝を目指します」 ~監督就任会見の第一声~

 引退から5年の解説者期間を経て、広島の監督に就任した野村は、記者会見で優勝を目指すと語った。マスコミも評論家もファンも、この発言に苦笑した。野村が現役だった1991年を最後に優勝から遠ざかり、3位になった1997年以降は常に4位以下の成績で、2007年から導入されたクライマックス・シリーズ(CS)進出さえ果たせていないチームの新監督の言葉としては大言壮語ととられても致し方ない面もある。

 逆指名や自由獲得枠等のドラフト制度の変更と、フリー・エージェント(FA)制度の導入によって、資金力に劣る広島は有望選手の補強と維持が困難となり、主力選手の流出が相次いだ。好成績を収めた外国人選手も年棒高騰がネックとなり、他球団へ移籍してしまう。チームが低迷を続けたのには、こうした事情があった。

 監督を受諾した時、野村の胸中には強い危機感と、ひとつの目算があった。… 続きを読む

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結城 数馬

結城 数馬

フリーライター

歴史・文学からビジネス、スポーツ等、幅広い分野において執筆を行う。共著に『武田勝頼の滅亡は武田信玄の残したリソースを有効活用できなかったことに尽きる』『IT・ベンチャー企業の組織作りは豊臣政権崩壊に学べ』『新約 真田幸村』『信長のおばさん』等(全て、まんがびと刊)がある。

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