「女武将」から学ぶリーダー像(第2回)

息子よりも父よりも幕府を優先した”尼将軍”北条政子

2017.04.19 Wed連載バックナンバー

 歴史の教科書に登場する女性で、真っ先に名前が上がる人物のひとりが北条政子だ。日本初の本格的な武家政権である鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝の正室である。頼朝に先立たれて出家したことから、「尼将軍」という二つ名でも呼ばれる。

 政子は頼朝が将軍となる以前から補佐し、頼朝死後は将軍職を継いだ2代頼家・3代実朝を支えたが、二つ名からもわかるように、サポート役というよりは将軍と同等の発言力を持っていた。特に実朝にも先立たれて源氏直系の将軍が絶えたあとは、4代将軍に名門・藤原家の養子を選出するなど、幕府の運営に深く関与している。

 鎌倉時代は、武士の家長は男性当主を前提としながらも、男性当主が失われた場合は妻や母などの女性による代行が認められていた。つまり、政子が頼朝に代わって幕府を統率しても何ら不思議はない。もちろん周囲の支持を得るには、リーダーとして強い意志と行動力が求められるが、政子は頼朝と出会った頃から、その力を発揮していた。

 

政子がいなければ頼朝は「起業」できなかった

 政子は伊豆(現在の静岡県伊豆半島)の豪族・北条時政の長女として、平安時代末期に生まれた。政子が4歳のとき、時政の領地にひとりの流罪人が送られてきた。当時14歳の頼朝である。

 頼朝が罪人となった経緯は次のようなものだ。頼朝の父で源氏の当主・源義朝は、政治の中心地である京で権勢を振るう平氏の当主・平清盛を失脚させるため、平治の乱で戦った。しかし、敗れて無念の死を遂げる。このとき義朝とともに出陣していた頼朝も戦犯の息子として捕えられたが、清盛の情けにより死刑を免れて、伊豆への流罪となったのである。

 正確な時期やきっかけは不明だが、政子は頼朝のもとに自らの意思で通いはじめ、やがてふたりは結婚を考えるようになった。朝廷から頼朝の監視役を命じられていた時政は、罪人との結婚などとんでもないと政子を館に監禁したが、それでも政子は脱出して頼朝のもとへ行ってしまうので、最後には時政もふたりの結婚を認めた。政子21歳、頼朝31歳のときである。

 その3年後、皇族・以仁王(もちひとおう)から頼朝宛てに、平氏打倒を命じる密書が届いた。当時の朝廷は絶対的な正義である。平氏を討つ大義名分を得た頼朝はついに挙兵した。鎌倉へと駒を進め、富士川の戦いに勝利して平氏を追い詰めてゆく。このとき頼朝を大いに助けたのが、伊豆周辺の豪族たちだった。三浦家や畠山家などの関東豪族は、北条家が頼朝の味方についたと耳にして「自分たちも平氏を討ちたい」と集まってきたのである。

 頼朝にいくら平氏打倒の志があっても、軍勢がそろわなければ挙兵できなかった。資金がなければ起業できないのと同じである。頼朝は、政子の積極的な行動によって、北条家をはじめとする関東武士とのつながりを持ち、平氏を倒す一大勢力を得たのだ。

 

幕府を私物化しようとする息子と父親をどう対処したか?

 富士川の戦いの翌1181年に清盛が没すると、平氏は急速に勢いを失い、壇ノ浦の戦いで源氏に滅ぼされた。そして頼朝は、朝廷から武士の頂点である征夷大将軍の位を賜り、鎌倉幕府を開く。頼朝は7年ほど将軍を務めたのち、53歳で世を去った。これを機に政子は出家し、安養院と名を改めている。

 しかし、頼朝という大黒柱がいなくなった鎌倉幕府は、決して盤石とはいえなかった。頼朝の後継者となった嫡男・頼家は、政子と頼朝の長男である。短気な性格で、長年の功績がある忠臣でも気に入らないところがあると、職を解いたり、領地を没収したりと、横暴が目立った。また、乳母の一族・比企(ひき)家の者ばかり贔屓するため、政子は… 続きを読む

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かみゆ歴史編集部

かみゆ歴史編集部

歴史コンテンツメーカー

歴史関連の書籍や雑誌、デジタル媒体の編集制作を行う。ジャンルは日本史・世界史全般、アート、日本文化、宗教・神話、観光ガイドなど。おもな編集制作物に『日本の山城100名城』(洋泉社)、『一度は行きたい日本の美城』(学研)、『戦国合戦パノラマ図鑑』(ポプラ社)、『系図でたどる日本の名家・名門』(宝島社)、『大江戸今昔マップ』(KADOKAWA)、『国分寺を歩く』(イカロス出版)など多数。お城イベントプロジェクト「城フェス」の企画・運営、アプリ「戦国武将占い」の企画・開発なども行う。公式サイトはwww.camiyu.jp

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