クロネコヤマトを作った男、小倉昌男の経営学(第2回)

「宅急便の父」小倉昌男が挑んだ役員・役所との闘い

2017.01.27 Fri連載バックナンバー

 牛丼の吉野家やアメリカの貨物運送から、宅配便事業のヒントを得た元ヤマト運輸会長の小倉昌男。その経緯については、前回触れた通りだが、単にアイディアマンなだけでは、宅配便事業をひとりで立ち上げることはできない。社内の調整、現場の従業員の理解、他社とのサービスの差別化などいろいろな課題は山積みだった。

 その課題の中には、役員や運輸省(現・国土交通省)との闘いもあった。後に宅急便の父と言われるようになった小倉は、こうした“強敵”に対しどう立ち向かったのか。

 

「全員反対」の取締役会を動かした現場の声

 前回述べたように、小倉は1970年代に、ヤマト運輸のメイン事業を、企業向けの宅配事業から、個人宅配事業へ転換を図ろうとしていた。しかし、そのためには取締役会で承認を得なければならない。1971年から社長に就いていた小倉は役員たちに根回しをするも、全員反対であった。

 これまでのヤマト運輸は、百貨店からの配送を請け負うことで採算を得ていたが、コストの増大に伴い、赤字に陥ろうとしていた。当時の役員たちの頭には百貨店での成功体験の印象が強く、個人宅配事業は手間がかかり、赤字は間違いない、と判断。トラック運送業の業界常識から外れる小倉の個人宅配事業の構想を取り合おうとしなかった。それでも小倉は社内会議でことあるごとに、個人宅配事業の構想説明を繰り返したが、役員たちの反応はいつも同じだった。

 小倉が諦めずに説明を繰り返していると、意外なところから反応が返ってきた。労働組合の幹部が「社長がそんなにしつこく言うなら考えたい」と言い出したのだ。

 一般的に、役員などのサラリーマン経営陣は、自己責任を負うことをしない。自分たちの任期中に何事もないように過ごしていくことが多い。役員にもかかわらず、会社の将来は“二の次”なのだ。

 しかし労働組合は、年3回の団体交渉をしているため、交渉時に会社の経営や財務状況を知ることになる。また、労働組合の幹部は、頻繁に組合員である従業員と接している。小倉のアイディアに賛同の意を示した幹部は、おそらく現場に漂う危機感を知っていたのだろう。

 もともと小倉と労働組合の関係は良好だった。オイルショックが起きた1973年、ヤマト運輸の業績も悪化したが、小倉は「組合員の解雇は絶対しない」と約束し、それを守った。労使の協調関係ができあがっていたのである。結果的に、小倉の事業構想に納得した労働組合が協力することで、ヤマト運輸は個人宅配事業へと参入することになった。

 

到着まで3~4日の時代になぜ「翌日配達」ができたのか

 宅急便サービスをスタートしたのは1976年1月。小倉の構想には、儲けが出るシミュレーションがあったが、とはいえ黒字が出るまでに試行錯誤が続くことも想定していた。

 儲けを出すためには、1台のトラックに多くの荷物を乗せ、コストを省くことが鍵となる。つまり、ライバルである郵便小包よりも良いサービスであることを広め、消費者にその良さを実感してもらい、荷物を多く集めることが重要だった。そこで小倉は、便小包とのサービス差別化の戦略として… 続きを読む

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三浦 一志/studio woofoo(www.studio-woofoo.net)

三浦 一志/studio woofoo(www.studio-woofoo.net)

1972年生まれ。前職のコンサルタント会社を経て、2006年退職後フリーで企業研修講師、大学講師、専門学校講師、Webコンサルタントとしてとして活動している。(財)日本NLP協会トレーナーアソシエイト、NLPマスタープラクティショナー、ITコーディネーター、情報セキュリティアドミニストレーター、テクニカルエンジニア(ネットワーク)、テクニカルエンジニア(データベース)。

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