日本を支えた“中間管理職”の苦悩(第8回)

“名物社長”を全国に知らしめた中間管理職・片倉景綱

2016.09.28 Wed連載バックナンバー

 ユニークな経営方針で不景気をものともせず業績を上げ続ける名物社長が、製造や流通など業界を問わず多数活躍している。独自の経営哲学にはビジネスのヒントが散りばめられており、ビジネスマン向けのテレビ番組や雑誌などで特集される機会も多い。

 しかし、どんな個性派企業も名物社長が一人で経営しているわけではない。社長の志に賛同し、支え続ける中間管理職が必ずいる。ましてや名物社長のビジネスモデルは前例のないものが多く、社長自身も手探りなので、中間管理職の補佐が欠かせないのだ。

 戦国時代の大名家をひとつの企業と見れば、東北地方を支配した伊達政宗とその側近・片倉景綱(かたくらかげつな)は、まさに名物社長とその中間管理職だろう。一般的に政宗は、奇抜さで周囲を出し抜いて出世した大胆不敵な人物と評されるが、実際には次々訪れる危機への不安を常に抱えていた。

 無論、不安なら安全策を取ればよい。しかし政宗の胸中には天下取りの野望があり、無難な枠に収まりたくなかった。景綱はその志を汲み取り、主君の理想を尊重して策や助言を与えた。政宗が自信を持って名物社長であり続けられた理由は、景綱の支えがあったからなのだ。

 

少年期から主君のコンプレックスを的確にとらえていた

 小説やドラマでは景綱を小十郎と表記することが多いが、この「小十郎」は片倉家当主が代々名乗る通称である。片倉家はもともと神官の家系で、伊達家の旧臣ではなかった。両家の縁がはじまるのは、景綱が政宗の父・輝宗(てるむね)に雇用された時期からだ。景綱19歳、政宗9歳の頃という。

 政宗は幼少時に病で右目を失明して以来、引きこもりがちだった。しかし輝宗は息子の将来性を見込んでおり、自ら厳選した人材で政宗の育成チームを組織した。景綱はその一員だったのだ。

 少年期の政宗が、景綱の協力で前向きな性格に変わった逸話がある。政宗自身はかねてから内向的な自分を変えたいと思っており、劣等感の原因である壊死した眼球を短刀で突き取り除くよう、家臣に命じた。家臣たちが一様に逃げる中、景綱は進み出て、右目の眼球を取り除いた。以降、政宗は快活な少年になったという。

 注目すべきは、まだ青年の景綱がすでに政宗の願望を把握し、最善策を実行できた点だろう。景綱は機を見て政宗のコンプレックスである右目の話題に触れ、その反応を見ることで、政宗の意思をあらかじめ理解していた。政宗に機会を与えられた際に、他の家臣よりもいち早く反応できたのは、いつ命令を下されても良いよう心構えができていたからであろう。

 

「蝿は何度打ち払ってもまたたかってきます」の真意

 景綱の情報活用力は成長してさらに鋭さが増した。政宗が伊達家当主となって東北地方南部を制圧したのと同時期、のちの天下人・豊臣秀吉は西日本全域を手に入れており、政宗に関東地方を支配する北条家攻略の協力を要請してきた。これに対し伊達家中では、秀吉の指図など受けずに一戦交えるべきという意見が大勢を占めたが、景綱… 続きを読む

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かみゆ歴史編集部

かみゆ歴史編集部

歴史コンテンツメーカー

歴史関連の書籍や雑誌、デジタル媒体の編集制作を行う。ジャンルは日本史・世界史全般、アート、日本文化、宗教・神話、観光ガイドなど。おもな編集制作物に『日本の山城100名城』(洋泉社)、『一度は行きたい日本の美城』(学研)、『戦国合戦パノラマ図鑑』(ポプラ社)、『系図でたどる日本の名家・名門』(宝島社)、『大江戸今昔マップ』(KADOKAWA)、『国分寺を歩く』(イカロス出版)など多数。お城イベントプロジェクト「城フェス」の企画・運営、アプリ「戦国武将占い」の企画・開発なども行う。公式サイトはwww.camiyu.jp

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