日本を支えた“中間管理職”の苦悩(第7回)

才覚で上司を喜ばせ追い詰めた中間管理職・明智光秀

2016.09.19 Mon連載バックナンバー

 7月15日、トルコ軍部が自国のレジェップ・タイイップ・エルドアン大統領を襲撃したクーデターは、民間人も含む約300人が犠牲となり、中東のみならず全世界に衝撃を与えた。背景にはエルドアン大統領の独裁政治への反発があり、特に軍部はトルコのイスラム教化推進政策に対して政教分離を訴えるため蜂起した。

 このときエルドアン大統領は休暇を利用してリゾート地を訪れていたが、軍部到着の数分前に大統領特別治安部隊の護衛で無事避難。結局、クーデターは失敗に終わり、エルドアン大統領の苛烈な粛清を招くこととなった。

 リーダーの出先を襲撃したトルコのクーデターは、戦国時代の本能寺の変に似ている。しかし、本能寺の変は独裁者的立場の織田信長が倒れ、家臣の明智光秀によるクーデター成功で幕を閉じた。

 実際のところ、1936年に発生した日本陸軍の青年将校が岡田啓介首相(当時)らを襲撃した二・二六事件の失敗からもわかるように、権力者を引きずり下ろすことは容易ではない。本能寺の変は、光秀が信長のわずかな隙をぴたりと突いたからこそ成功したのである。

 そして、その才覚は信長の中間管理職だったときから発揮されていた。

 

信長家臣団随一の出世頭

 本能寺の変は誰もが教科書で知る日本史の大事件だが、実行した光秀については家系にも前半生にも不明点が多い。歴史の表舞台に登場するのは、越前(現・福井県)の大名・朝倉義景に仕えていた頃からである。光秀は公家の儀式や服装のルール、古典などの教養に詳しかったと伝わるが、源流を平安時代の日下部家に持つ名門・朝倉家で学んだものかもしれない。

 しかし義景は戦いを嫌い、時代の潮流に乗り遅れていた。このため光秀は、信長へと主を替えたのである。

 武士とは異なる公家ならではの教養と作法をマスターし、公家とのコネクションも持っていた光秀を、信長は喜んで迎え入れ、能力を高く評価して中間管理職に重用した。戦国時代の出世頭といえば同じ織田家臣団出身の豊臣秀吉がよく挙げられるが、光秀のほうが出世は早い。1571年に信長から近江(現・滋賀県)の土地を与えられた光秀は坂本城を築城し、家臣団で最初の城持ち大名になった。

 光秀が信長に評価された最大のポイントは、… 続きを読む

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かみゆ歴史編集部

かみゆ歴史編集部

歴史コンテンツメーカー

歴史関連の書籍や雑誌、デジタル媒体の編集制作を行う。ジャンルは日本史・世界史全般、アート、日本文化、宗教・神話、観光ガイドなど。おもな編集制作物に『日本の山城100名城』(洋泉社)、『一度は行きたい日本の美城』(学研)、『戦国合戦パノラマ図鑑』(ポプラ社)、『系図でたどる日本の名家・名門』(宝島社)、『大江戸今昔マップ』(KADOKAWA)、『国分寺を歩く』(イカロス出版)など多数。お城イベントプロジェクト「城フェス」の企画・運営、アプリ「戦国武将占い」の企画・開発なども行う。公式サイトはwww.camiyu.jp

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