日本を支えた“中間管理職”の苦悩(第18回)

根拠なき炎上で引退、気の毒な中間管理職・田沼意次

2017.05.19 Fri連載バックナンバー

 4月、当時現職だった復興大臣が、東日本大震災について「東北でよかった」といった趣旨の発言をしたことがSNSで炎上する騒ぎとなり、同大臣は炎上から数日のうちに更迭となった。近年は政治家のみならず、芸能人でも不倫報道の炎上で活動自粛に追い込まれるなど、ネットの炎上騒動が無視できなくなっている。

 しかし、有名人の「炎上」は今に始まったことではない。SNSが登場する遥か昔から、厳しい世論によって社会的制裁を受けた人物は存在する。江戸時代の幕臣・田沼意次(たぬまおきつぐ)もその一人である。

 収賄疑惑で炎上した意次は、現在でも“賄賂政治家”の代表のように語られることが多い。ところが本当に賄賂を受け取っていたのかというと、にわかに断じ難い。悪評が独り歩きして、財政改革に発揮した類まれな手腕まで過小評価されている、気の毒な中間管理職のひとりなのである。

 

誠実な人柄で将軍2代の信頼を得る

 田沼家は江戸幕府の幕臣として栄えたが、もとをたどると幕府を開いた徳川家康の直属の部下ではない。意次の高祖父が家康の十男・頼宣(よりのぶ)に出仕したのが徳川家との縁のはじまりで、江戸時代初期には頼宣の家系である紀伊(現・和歌山県)徳川家に仕えていた。

 転機は7代将軍・家継(いえつぐ)の死去で訪れる。徳川本家に後継者が不在となり、紀伊徳川家5代当主の吉宗が8代将軍に就いた。このとき、吉宗の側近だった意次の父・意行(おきゆき)が、紀伊から江戸に移る吉宗に随行して幕臣となったのである。

 意次は江戸で生まれ、16歳でのちの9代将軍・家重(いえしげ)の側近となった。家重は意次を厚く信頼し、将軍に就任すると意次を将軍と幕臣のトップである老中の間に立つ調整役・側用取次(そばようとりつぎ)に抜擢する。意次は期待によく応え、10代将軍・家治(いえはる)の代にも側用取次を担当した。慣例では将軍が代替わりするとその寵臣も退陣したが、意次は家治たっての願いで続投したのである。

 そして家治のもとでさらなる出世街道を歩み、「田沼時代」と呼ばれる一時代を築く。54歳で老中に昇りつめ、67歳のときには父の95倍もの収入を得る異例の大出世を果たした。

 

じり貧の幕府に新たな財源を生む

 意次がここまで昇進を重ねた理由は、政治手腕が優れていたからに他ならない。特に顕著な成果を上げたのが財政改革だ。

 江戸幕府は、3代将軍・家光の頃に貯蓄を使い果たしており、家重・家治の治世にはじり貧になっていた。しかも、メインの財源である年貢はすでにかなり重く設定されており、これ以上引き上げれば農民の反乱を招きかねない状況だった。

 そこで意次が新たな財源として目をつけたのが、商業である。当時は江戸の人口が急速に増加し、それに伴って商業も発展していたが、税制の整備に手が回っていなかったのだ。

 意次は商人たちに、特権組織の「株仲間」を設立させて営業権を与え、幕府が商売を認める見返りに、上納金を納付させる間接税を導入した。商売の権利を独占したい商人たちは、こぞって株仲間設立を申請し、税収はみるみる増加。商業が盛んになることで、経済の巡りも活性化した。意次は、年貢頼みだった幕府の税収に新たな財源を見出すことに成功したのだ。

 

意次はむしろクリーンな政治家だった?

 しかし、このような重商主義政策は、… 続きを読む

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かみゆ歴史編集部

かみゆ歴史編集部

歴史コンテンツメーカー

歴史関連の書籍や雑誌、デジタル媒体の編集制作を行う。ジャンルは日本史・世界史全般、アート、日本文化、宗教・神話、観光ガイドなど。おもな編集制作物に『日本の山城100名城』(洋泉社)、『一度は行きたい日本の美城』(学研)、『戦国合戦パノラマ図鑑』(ポプラ社)、『系図でたどる日本の名家・名門』(宝島社)、『大江戸今昔マップ』(KADOKAWA)、『国分寺を歩く』(イカロス出版)など多数。お城イベントプロジェクト「城フェス」の企画・運営、アプリ「戦国武将占い」の企画・開発なども行う。公式サイトはwww.camiyu.jp

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