日本を支えた“中間管理職”の苦悩(第12回)

頑固な上司に翻弄された中間管理職・大野治長

2016.11.29 Tue連載バックナンバー

 NHK大河ドラマ「真田丸」がラストスパートに入る。豊臣秀頼徳川家康の間で勃発した大坂冬の陣は、真田信繁(通称・幸村)が築いた出城・真田丸での奮戦により豊臣方勝利と思われたが、家康が豊臣家の本拠地・大坂城に大砲で威嚇射撃を繰り返して城内を恐怖に陥れ、講和へこぎつけた。今後、家康が再度出陣する夏の陣に突入する。

 この大坂の陣で、旧来と少し異なった描かれ方をしているのが豊臣家臣の大野治長(おおのはるなが)だ。かつては合戦を嫌がり、幸村の野戦案を却下する臆病者とされることが多かったが、「真田丸」の治長は幸村に理解を示して協力的な態度を見せる。しかし秀頼の母・淀殿に逆らえず、冬の陣では野戦案却下に同調するしかなかった。

 治長から見てトップ・秀頼のアドバイザーである淀殿は、上司に当たる。一方、大坂の陣のために雇用した幸村は部下である。部下がいい提案をしても上司に却下される――。治長は実に中間管理職らしい苦労人だった。

 しかし、いくら提案が淀殿に却下されても、治長にはそれでも淀殿を支え続ける理由があったのだ。

 

淀殿からの抜擢で豊臣家臣に

 治長に関しては詳細な史料が少なく、大野家の系図も不明点が多い。しかし、治長の母・大蔵卿局(おおくらきょうのつぼね)は淀殿の乳母だったと判明している。淀殿は近江(現・滋賀県)の大名・浅井長政の長女であり、大野家は浅井家の家臣だったと考えられる。つまり、治長は幼い頃から淀殿を支えてきたのだ。そして、淀殿が豊臣秀吉の側室になると、治長も秀吉の側近・馬廻衆(うままわりしゅう)として取り立てられた。治長にとって淀殿は、出世の機会を与えてくれた恩人ともいえる。

 大坂の陣開戦以前、豊臣家には治長の上司・片桐且元がいた。且元は治長を気に入っており、家臣に「治長は豊臣家の役に立つ人物だから我が子同然に扱いたい」と語っている。その言葉通り、治長は且元から官僚としての薫陶を授けられたようだ。

 しかし、家康との協調路線を主張する且元と家康の風下に立つことを嫌う淀殿が対立すると、治長は淀殿についた。家康との全面戦争を避けるため「家康のもとで一大名に甘んじるべき」と進言した且元を裏切り者とみなし、大坂城から退去するよう仕向けたのである。

 こうして治長は豊臣家を主導する地位に立った。且元にも恩はあるが、淀殿の意見を重んじたのだった。

 

“大坂五人衆”をプロデュース

 大坂の陣の時期になると、かつて天下を治めた豊臣家が存続していても、すでに天下は家康のものという認識が浸透していた。このため、公の存在である大名は、こぞって家康方についている。秀頼に味方したのは14年前の関ヶ原の戦いで家康に敵対して敗戦し、すべてを失った浪人ばかりだ。

 寄せ集めの軍を機能させるには、優れたリーダーが必要になる。そこで治長がスカウトした浪人が… 続きを読む

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かみゆ歴史編集部

かみゆ歴史編集部

歴史コンテンツメーカー

歴史関連の書籍や雑誌、デジタル媒体の編集制作を行う。ジャンルは日本史・世界史全般、アート、日本文化、宗教・神話、観光ガイドなど。おもな編集制作物に『日本の山城100名城』(洋泉社)、『一度は行きたい日本の美城』(学研)、『戦国合戦パノラマ図鑑』(ポプラ社)、『系図でたどる日本の名家・名門』(宝島社)、『大江戸今昔マップ』(KADOKAWA)、『国分寺を歩く』(イカロス出版)など多数。お城イベントプロジェクト「城フェス」の企画・運営、アプリ「戦国武将占い」の企画・開発なども行う。公式サイトはwww.camiyu.jp

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