戦国武将、2代目の苦悩(第3回)

豊臣秀頼/“お坊ちゃま”の成長は焦らず待つべし

2015.11.18 Wed連載バックナンバー

 豊臣秀吉徳川家康などの天下人や、伊達政宗前田利家ら大藩をなした武将は、ある意味で「幕府」や「藩」という企業の“創業者”といえます。となると、その跡を次ぐ後継者は“2代目社長”とみなすこともできます。

 偉大なる創業者の跡目を継いだ“2代目”には、相当な苦労があったのは間違いありません。彼ら2代目のリーダーたちは、初代から何を引き継ぎ、何を引き継がなかったのでしょうか?

 2代目だからこそ直面した彼らの知られざる苦労に迫る本連載の3回目は、天下人・豊臣秀吉の息子である豊臣秀頼を取り上げます。

 

“本当の天下人”秀吉の息子は、世間知らずのお坊ちゃま?

 戦国時代の三大天下人といえば、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康です。しかし実際のところ、本当に天下を統一したのは、秀吉でしょう。信長は天下統一に限りなく近づきながらも本能寺の変で命を落とし、家康は江戸幕府を開いたものの、秀吉がつくった政治制度の多くを踏襲しました。

 ところが、豊臣政権はわずか2代で倒れます。秀吉の後継者である息子の秀頼が、家康に天下を奪われたのです。この最終決戦が大坂の陣であり、戦国時代の終焉です。

 秀頼は秀吉が天下人になってから生まれたので、赤ちゃんの頃から何ひとつ不自由ない暮らしをしてきました。生まれた大坂城からは2回しか出たことがないといわれます。このため世間知らずのお坊ちゃんと見られることが多く、実母の淀殿が強い発言力を持っていたことから、母に逆らえない重度のマザコンだったともよくいわれます。

 しかし、秀頼は座して滅びを待つだけの2代目ではありませんでした。むしろ、大きな敗因は若すぎたことです。大坂の陣で自刃したときにはまだ23歳。その未熟さをフォローできる家臣が少なかったことも致命的だったのです。

 

想定外だった秀頼の誕生

 豊臣政権が短命だった原因を、秀頼だけに求めることはできません。秀吉の時代からすでに、崩壊の兆しはあったのです。… 続きを読む

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かみゆ歴史編集部

かみゆ歴史編集部

歴史コンテンツメーカー

歴史関連の書籍や雑誌、デジタル媒体の編集制作を行う。ジャンルは日本史・世界史全般、アート、日本文化、宗教・神話、観光ガイドなど。おもな編集制作物に『日本の山城100名城』(洋泉社)、『一度は行きたい日本の美城』(学研)、『戦国合戦パノラマ図鑑』(ポプラ社)、『系図でたどる日本の名家・名門』(宝島社)、『大江戸今昔マップ』(KADOKAWA)、『国分寺を歩く』(イカロス出版)など多数。お城イベントプロジェクト「城フェス」の企画・運営、アプリ「戦国武将占い」の企画・開発なども行う。公式サイトはwww.camiyu.jp

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