激動の時代に生きた内閣総理大臣、その横顔(第2回)

山縣有朋~“ダーティな軍人”の真の姿とは

2015.09.28 Mon連載バックナンバー

 「内閣総理大臣」という役職が誕生して130年。かつて日本のかじ取りを担った歴代の内閣総理大臣は、どのような人たちだったのでしょうか。リーダーたちの人柄にスポットを当て、そこから見えるリーダーの資質を探る本連載。第2回目は、山縣有朋(やまがた ありとも)を紹介します。

 2度の内閣総理大臣、陸軍大臣、内務大臣、司法大臣など、明治から大正にかけて政府要職を歴任した山縣。日本陸軍を創設し、「国軍の父」とも称された一方で、軍国主義的なイメージからダーティなイメージがつきまといます。しかし山縣有朋は明治国家のために、愚直なまでに現実主義を貫く政治家でした。

 

戦争の中で育った「国軍の父」

 第3代、第9代と2度にわたって首相に就任し、内閣を組閣した山縣有朋は、明治を代表する政治家であり軍人でした。まずは、簡単に山縣の経歴を追ってみましょう。

 山縣有朋は1838年、幕末の長州藩(現在の山口県)に、武士と庶民の中間層として生まれました。後に吉田松陰の松下村塾に学び、さらに高杉晋作が創設した奇兵隊に入隊します。奇兵隊は長州藩の正規軍ではなく、下級武士と庶民がほぼ半分ずつの割合で構成されていました。外国船からの攻撃に備え、高杉が創設した混成部隊で、山縣は軍人としての第一歩を踏み出したのです。

 隊内では徐々に頭角を現し、奇兵隊の軍監という役職に就任します。その後、下関戦争におけるイギリス・フランス・オランダ・アメリカの四国連合艦隊との戦いで、欧米の近代兵器による実戦を経験。第一次・二次長州征伐にも参戦し、戊辰戦争では新政府軍の北陸道鎮撫総督(北陸地方の旧幕府軍を攻撃する部隊のリーダー)、会津征討総督の参謀として活躍します。

 明治維新を迎えると、軍政家として明治政府において活躍。2度の内閣総理大臣(第3、9代)、陸軍大臣、内務大臣、司法大臣などを歴任します。その功績としては、国軍としての日本陸軍を創設したこと、これまで陸軍省の一局であった参謀本部を独立したことがあります。さらに、統帥権の独立(軍人が軍隊の最高指揮権を握ること)を行ったのも山縣です。この結果、後に「国軍の父」とも称されました。

 山縣のもつ影響力は軍部だけにとどまらず、政官界にもおよび、その幅広い人脈は「山縣系」「山縣閥」と呼ばれたのです。そして晩年に至っても「元老中の元老」として君臨し、国政に隠然たる勢力を持ち続けました。

 

葬式には1万人の会場に700人しか集まらない

 近代日本が構築された明治、大正にかけて、山縣はとてつもない経歴を持った人物です。しかし、存命中でさえその人間的な評価はすこぶる悪いものでした。… 続きを読む

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高野 晃彰/studio woofoo(www.studio-woofoo.net)

高野 晃彰/studio woofoo(www.studio-woofoo.net)

ベストフィールズ代表

大手アパレルで店舗開発を担当、その後、専門誌系出版社で企画編集を中心に勤務、退社後、編集プロダクション「ベストフィールズ」とデザインワークス「デザインスタジオタカノ」を立ち上げる。旅行・歴史・フード・ペット・マリンスポーツなどのエンタメ系から経済、ファッションまで幅広い分野での書籍・雑誌・ムック・商業制作物の執筆、編集、撮影、制作を行なっている。

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