激動の時代に生きた内閣総理大臣、その横顔(第1回)

伊藤博文~一貫性のない性格こそ舵取り役に相応しい

2015.09.11 Fri連載バックナンバー

 今年は太平洋戦争終結から70年周年ですが、日本のトップ「内閣総理大臣」という役職が誕生して130年という節目の年でもあります。現代は集団的自衛権、憲法改正、消費税増税などかつてない転換点にありますが130年前もまた、海外の大国に肩を並べるために奮闘していた激動の時代でした。

 そんな昔の日本のかじ取りを担った歴代の内閣総理大臣は、どのような人たちだったのでしょうか。本連載ではリーダーたちの人柄にスポットを当て、そこから見えるリーダーの資質を探ります。

 初回は、4度の内閣総理大臣をはじめ、明治期の政府要職を歴任した、初代内閣総理大臣の伊藤博文。元老として、敗戦まで日本政治のベースとなった大日本帝国憲法の作成に深く関わりながらも、当時の国民や歴史研究者などからは、統一性や一貫性がない政治家との評されることもあります。今回はそんな伊藤博文の素顔の人物像に迫ってみます。

 

百姓の子がイギリスへ渡るまで

 日本史上において、また明治という時代を学ぶうえで絶対に逸することができない人物、その代表が伊藤博文です。伊藤は、大日本帝国憲法の制定と議会開設を中心的人物として進め、さらに初代内閣総理大臣を含めて計4度の内閣を組閣し首相を務めた大政治家でした。晩年には、初代韓国統監として、保護国だった朝鮮半島の統治にあたったことでも有名です。

 伊藤は天保12(1841)年、長州藩内の百姓の子として生まれます。父親が長州藩の足軽・伊藤家の養子となり、博文(幼名は利助)も足軽という武士で最下層の身分になります。その後、上司である来原良蔵の紹介で吉田松陰の松下村塾に入塾、さらに来原の義兄である桂小五郎(後の木戸孝允)の従者となります。後述しますが、青年期における桂との出会いは、その後の伊藤の人生における大きな転機となります。

 幕末期、伊藤は藩命による密航留学でイギリスに渡ります。滞在中は特に英語能力の習得を熱心に務めます。のちに伊藤と接した欧米人は、彼の英語力にこぞって称賛を送っています。

 伊藤はまた、イギリスの海軍施設や工場を見学して、“世界の工場”と称された産業革命発祥の国、イギリスの国力を目の当たりにします。この時の経験が、「知の政治家」と称される伊藤の一貫した施政原理になりました。それは、先進国の文明を自ら吸収し、それを国民に行きわたらせ、日本を文明国として自立させる、というものでした。

 

海外での経験を鼻にかけ大失敗

 明治維新を迎えると、伊藤博文に活躍の舞台が開けてきます。そこには… 続きを読む

全文(続き)を読む

続きを読むにはログインが必要です。

まだ会員でない方は、会員登録(無料)いただくと、続きが読めます。

高野 晃彰/studio woofoo(www.studio-woofoo.net)

高野 晃彰/studio woofoo(www.studio-woofoo.net)

ベストフィールズ代表

大手アパレルで店舗開発を担当、その後、専門誌系出版社で企画編集を中心に勤務、退社後、編集プロダクション「ベストフィールズ」とデザインワークス「デザインスタジオタカノ」を立ち上げる。旅行・歴史・フード・ペット・マリンスポーツなどのエンタメ系から経済、ファッションまで幅広い分野での書籍・雑誌・ムック・商業制作物の執筆、編集、撮影、制作を行なっている。

このページの先頭へ
Bizコンパス公式Facebook Bizコンパス公式Twitter