幕末藩主に学ぶリーダーの資質(第9回)

用心深さは時に仇となる、広島藩・浅野長勲の判断

2015.04.17 Fri連載バックナンバー

 海外の企業に比べると、「日本企業は、決断が遅い」とよくいわれます。また、「成功者は決断が早い」ということを、ビジネス書などで読まれたことのある方も多いと思います。

 確かに、成功しているプロジェクトのリーダーとコンタクトを取ろうとメールを送ると、すぐに返事が返ってきて驚かされることがよくあります。

 もちろん、ただ単に早ければいいというわけでもなく、最終的な目標をしっかりと理解した上で、決断に必要な情報を事前に集めておくといった、日頃からの努力のたまものであることを見逃してはいけないでしょう。

 こうしたことは、なにもビジネスだけに限りません。「開国か攘夷(外国人排斥)か」「佐幕(親幕府)か倒幕(反幕府)か」 と、日本中が右往左往した幕末においても、一瞬の決断の早さと正確さが、藩の運命を決めた例は数多くあります。

 一時は薩摩・長州とともに討幕の主力に数えられた広島藩は、そんな「一瞬の決断」に泣いた藩のひとつといえます。

 42万石を有する外様大名・浅野家が藩主を務める広島藩は、十分にその役割を果たせる立場にありました。しかし現在、歴史に詳しい人でも、この藩の幕末藩主の名前を思い起こせる人はほとんどいないに違いありません。

 広島藩が歴史の表舞台から姿を消したのは1867年2月、ほんの数日の判断の遅れが原因とされます。

 

叔父と甥の二人三脚で藩の舵を取る

 幕末の広島藩では、第11藩主・浅野長訓(ながみち)と、その跡継ぎである長勲(ながこと)の2人が協力し合いながら、先の読めない時代を藩のリーダーとして決断をくだしてくことになります。

 この2人は親子ではなく、叔父と甥の関係にありました。まず、長訓は第7代藩主・浅野重晟(しげあきら)の孫で、広島藩の支藩である新田藩浅野家に養子に入って一度は新田藩主となりますが、10代の広島藩主が跡継ぎを決める間もなく急逝したことで、本家である広島藩の11代藩主となりました。

 一方、明治2年に長訓の跡をついで広島藩最後の藩主となる長勲は、長訓の弟の息子として生まれ、広島藩士である沢家に養子に入ります。沢家は、藩主に代わって幕政を取り仕切る「執政」という大役を務める名家でしたが、藩の財政難のあおりを受けて収入も減り、家計は火の車でした。

 しかし、そうした苦しい家計の中でも、名家としての誇りは失うことなく、養子に入った長勲は大変厳しくしつけられたといいます。当時、曾祖父が死の間際に孫の長勲に言い残した言葉が伝わっています。

「そなた(長勲)は度胸がある一方で、優しい性格に育った。しかし、よい人生を送るには、人の話をよく聞いて情報を集めたうえで、将来をしっかりと見据えて自らの判断で行動しなくてはいけない」

 その後、長勲は請われて当時は新田藩の藩主をしていた長訓の養子となります。そして、1858年、養父となった長訓の広島藩主就任をきっかけに、次期広島藩主という立場に着くことになるのです。

 

石橋をたたいて渡る長勲の処世術

 長勲の用心深さをよく表すエピソードが伝わっています。… 続きを読む

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かみゆ歴史編集部

かみゆ歴史編集部

歴史コンテンツメーカー

歴史関連の書籍や雑誌、デジタル媒体の編集制作を行う。ジャンルは日本史・世界史全般、アート、日本文化、宗教・神話、観光ガイドなど。おもな編集制作物に『日本の山城100名城』(洋泉社)、『一度は行きたい日本の美城』(学研)、『戦国合戦パノラマ図鑑』(ポプラ社)、『系図でたどる日本の名家・名門』(宝島社)、『大江戸今昔マップ』(KADOKAWA)、『国分寺を歩く』(イカロス出版)など多数。お城イベントプロジェクト「城フェス」の企画・運営、アプリ「戦国武将占い」の企画・開発なども行う。公式サイトはwww.camiyu.jp

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