幕末藩主に学ぶリーダーの資質(第8回)

幕府も弟も見捨てた尾張藩・徳川慶勝の非情な決断

2015.03.31 Tue連載バックナンバー

 「リーダーは孤独である」とはよく言われる言葉です。

 学生時代ならいざ知らず、ビジネスの現場で直面する問題には、「本当に正しい答え」などない場合がほとんどです。そのため、どんなに話し合いや会議を重ねたとしても、すべての人間の理解を得ることは難しく、最終的にはリーダーがすべての責任を背負って決断することになります。

 決断の度に、反対派からはなじられ、時には思わぬ敵を作ってしまうこともあるでしょう。リーダー自身も内心では「あの時の決断は正解だったのか」と不安を抱えている場合だってあるはずです。それでも、そうした不安を隠して孤独のままで、リーダーは部下を引っ張っていかなくてはいけないのです。

 多くの家臣にかしずかれていた幕末の藩主たちもまた、「孤独なリーダー」でした。「開国か攘夷(外国人排斥)か」「佐幕(親幕府)か倒幕(反幕府)か」と、人々が揺れ動く中で、藩の命運や家臣の将来、そして日本の未来をかけて、厳しい決断をしなくてはいけませんでした。

 そんな中でも、尾張藩主・徳川慶勝(よしかつ)の決断は、他のどの藩主よりも孤独なものでした。兄弟が幕府のために戦う中、徳川一門を代表する立場にありながら、あえて「裏切り者」の汚名を着る決断をくだすことになります。

 

藩政改革を陰で支えた兄弟愛

 江戸時代、日本の東西を結ぶ東海道・中山道沿いに位置していた尾張藩(愛知県名古屋市)は、地理的に極めて重要な地位を占めていました。そのため尾張藩主には、徳川宗家(将軍家)に次ぐ「御三家筆頭」という高い格式が与えられていました。

 しかし、その地位とは裏腹に、幕末の10代から13代までの4代にわたって、藩政に関心を払わない藩主が続いたことで、幕末における藩の財政は火の車でした。

 そんな中、第14代藩主を継いだのが徳川慶勝です。

 慶勝は尾張藩の支藩である高須藩(岐阜県海津市)にて、第10代藩主・松平義建(よしたつ)の次男として生まれました。義建は「詩歌や書をよくする文人」として高い評価を得ていた人物で、子どもの教育にも熱心でした。そのため、彼の息子たちは幼い頃より英明さで知られ、慶勝の兄弟も名家に養子として迎え入れられています。

 たとえば五男・茂徳(もちなが)は慶勝の跡を継いで尾張藩主となった後、将軍を出した一橋家を継ぎました。また、七男・容保(かたもり)は会津藩松平家に、八男・定敬(さだあき)は桑名藩松平家に養子に入ります。

 慶勝、茂徳、容保、定敬──。徳川一門家の当主として各家に養子に入ったこの兄弟は、それぞれに幕末維新に重要な役割を果たし、「高須四兄弟」と呼ばれることになります。

 彼らは、養子先でそれぞれに藩政改革を進めましたが、その間も兄弟同士、交流があったようです。

 たとえば、慶勝は財政改革の一環として、領内で特産品の開発も試みましたが、その際、会津藩から漆(うるし)の実を入手しています。

 当時、会津では漆の実は領外へ持ち出すことが禁じられていました。しかし、会津藩主は慶勝の弟の松平容保。兄弟のよしみで特別な措置がとられたと考えられています。

 

失敗を糧にリーダーとして成長した若き藩主

 嘉永2(1849)年に藩主となった慶勝は、尾張藩が伊勢湾に面していたこともあり、海防の強化に取り組みました。慶勝は早くから海外の情勢に関心を寄せており、長崎出島のオランダ商館長が幕府に提出する、海外の動向を記録した「オランダ風説書」を密かに入手していたようです。慶勝はこうした海外情報を元に、幕政へも積極的に関与しようとします。

 しかし、これが失敗でした。… 続きを読む

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かみゆ歴史編集部

かみゆ歴史編集部

歴史コンテンツメーカー

歴史関連の書籍や雑誌、デジタル媒体の編集制作を行う。ジャンルは日本史・世界史全般、アート、日本文化、宗教・神話、観光ガイドなど。おもな編集制作物に『日本の山城100名城』(洋泉社)、『一度は行きたい日本の美城』(学研)、『戦国合戦パノラマ図鑑』(ポプラ社)、『系図でたどる日本の名家・名門』(宝島社)、『大江戸今昔マップ』(KADOKAWA)、『国分寺を歩く』(イカロス出版)など多数。お城イベントプロジェクト「城フェス」の企画・運営、アプリ「戦国武将占い」の企画・開発なども行う。公式サイトはwww.camiyu.jp

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