幕末藩主に学ぶリーダーの資質(第4回)

龍馬を活かせなかった土佐藩主・山内容堂の限界

2015.01.30 Fri連載バックナンバー

 人事採用者にとって、せっかく採用した若手がすぐに辞めてしまうことは大変頭が痛い問題でしょうが、これは何も現代に限ったことではありません。幕末にも、こうした「若者の離職問題」が存在しました。

 江戸時代は、ご存じのように身分制度がいまよりもはるかに厳密に決まっていました。例外はありますが、「お殿さまの子はお殿さまに、農家の子は農民に」というのが当時の常識。武士も同じで、長州で生まれれば長州藩に仕え、会津で生まれれば会津藩主を主君と仰ぎました。

 ところが、江戸時代も末期になると、そうした身分制度の枠組みから抜け出そうとする若者が現れたのです。彼らは「脱藩」という手段で生まれ故郷を飛び出し、自らの才能で人生を切り開こうとしました。

 その代表格ともいえるのが、土佐藩(高知県)の「郷士」という低い身分の家柄に生まれながら、脱藩をして日本各地を飛び回り、日本の夜明けに貢献した坂本龍馬です。

 今回は、坂本龍馬の生まれ故郷である土佐藩の藩主・山内容堂(ようどう)を取り上げ、なぜ、土佐藩は坂本龍馬という逸材を、脱藩という形で失うことになったのかについて考えたいと思います。

 

最後まで幕府に尽くした山内容堂

 山内容堂は、長州藩(山口県)・薩摩藩(鹿児島県)と幕府との武力衝突を回避しようと尽力し、将軍・徳川慶喜(よしのぶ)に大政奉還を決意させた幕末史の重要人物です。

 容堂は本来、藩主の座に就くはずのなかった人物でした。第10代土佐藩主・山内豊策(とよかず)の五男である豊著(とよあきら)の子として生まれた彼の前には、何人もの藩主候補がいたからです。

 ところが、容堂が20歳代の頃に、13代、14代藩主が相次いで急死してしまい、跡継ぎが不在という非常事態に陥ります。江戸時代においては、跡継ぎを定めないままに当主が死去すると「お家断絶」とみなされ、家(上記の場合は山内家)は消滅、領地は幕府に没収されることになっていました。

 そこで、このままだと藩の存続も危ういと見た家臣たちは、藩主の死を隠したまま、容堂を跡継ぎにすることを幕府に願い出ます。この時、幕府は事実を知りながら、容堂の藩主就任を認めました。後に、容堂が最後まで幕府をかばおうとしたのも、この幕府の決定にずっと恩義を感じていたからだともいわれています。

 藩主となった容堂は、吉田東洋後藤象二郎といった才覚のある人物を取り上げ、藩政改革に取り組みます。吉田東洋は後に暗殺されてしまいますが、後藤象二郎は幕末を生き延び、板垣退助とともに議会の開設運動などで活躍することになります。

 また、藩士を函館や長崎に送って最新の情報を集めさせ、土佐出身で、アメリカで暮らした経験のあるジョン万次郎に西洋式の船の建造を依頼しています。なお、容堂に命じられて長崎へと視察に行ったひとりが、後に三菱財閥の創始者となる岩崎弥太郎です。

 

土佐藩の身分制度が藩政改革を妨げる

 このように、熱心に藩政改革を進めた容堂ですが、土佐で生まれた優れた人材をひとつにまとめあげ、土佐藩を幕末史の主役にすることはかないませんでした。… 続きを読む

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かみゆ歴史編集部

かみゆ歴史編集部

歴史コンテンツメーカー

歴史関連の書籍や雑誌、デジタル媒体の編集制作を行う。ジャンルは日本史・世界史全般、アート、日本文化、宗教・神話、観光ガイドなど。おもな編集制作物に『日本の山城100名城』(洋泉社)、『一度は行きたい日本の美城』(学研)、『戦国合戦パノラマ図鑑』(ポプラ社)、『系図でたどる日本の名家・名門』(宝島社)、『大江戸今昔マップ』(KADOKAWA)、『国分寺を歩く』(イカロス出版)など多数。お城イベントプロジェクト「城フェス」の企画・運営、アプリ「戦国武将占い」の企画・開発なども行う。公式サイトはwww.camiyu.jp

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