幕末藩主に学ぶリーダーの資質(第12回)

世界を驚かせた宇和島藩・伊達宗城の外交術

2015.05.31 Sun連載バックナンバー

 先月、安倍首晋三首相が米議会で日米関係についての演説を行い、話題となりました。

 国のトップの外交は常に注目を集め、しばしば批判の的となります。これは、長らく日本の外交が下手だと言われてきたためでもあるでしょう。では、日本人はなぜ外交が下手なのでしょうか。

 専門家の調査によると、歴史上の重要な局面における外交の弱点は、「軍事力・情報収集力・戦略」だそうです。軍事力は、国際社会での発言力を左右する国の基礎体力というべきもので、企業に置き換えると「資本」です。情報収集力は相手を知ることであり、これによって対外戦略が立てられます。

 日本外交の夜明けであった明治維新期、この3つのポイントを押さえた外交手腕を見せたのが、伊予国(愛媛県)宇和島藩主・伊達宗城(むねなり)です。宗城は、島津斉彬(薩摩藩)、松平春嶽(福井藩)、山内容堂(土佐藩)と並び「四賢侯」と称された開明的な藩主であり、優れた情報収集力と堂々たる話術で外国の要人たちにも一目置かれました。

 

弱小・宇和島藩をどう改革したのか

 宇和島藩は、初代仙台藩主・伊達政宗の子、伊達秀宗を祖とする藩です。秀宗は、政宗とともに大坂冬の陣において徳川側に加勢して豊臣家を滅ぼすことに貢献し、この功により、家康から宇和島藩を与えられて伊達家の分家を立てました。その後、跡継ぎがいなくなる危機を迎えましたが、仙台伊達家から養子を迎えることで藩を存続させます。

 宗城も、宇和島藩の跡継ぎ不在のため養子として迎えられたひとりです。旗本の子として江戸に生まれた宗城は、いったん伊達家の家臣の養子となった後、7代藩主・宗紀(むねただ)の跡継ぎとして藩主に就任しました。藩では伊達家の血筋を絶やしたくないという意向が根強く、宗紀の遠縁としてわずかに血を引く宗城が選ばれたのです。

 当時の宇和島藩の石高はわずか7万石で、四賢侯の薩摩藩が77万石、福井藩が32万石、土佐藩が24万石であるのに比べると、弱小藩でした。そこで宗城は藩政改革に取り組みます。まず、先代の宗紀が行っていた殖産興業策を発展させ、西洋化を奨励して富国強兵を藩政の重心にすえます。中でも軍備・兵制の洋式化には力を入れ、下級武士の武器とされてきた銃の習得を藩士たちに命じ、自らも大砲の試し打ちに没頭しました。

 さらに宗城は、身分や出自を問わず才能のある者を登用します。主な者に、幕政批判の罪で逃亡中だった蘭学者の高野長英緒方洪庵適塾で学んだ村田蔵六(大村益次郎)、細工師・嘉蔵(のちの前原巧山)がいます。高野と村田は、宗城が重用する蘭学者・二宮敬作が強く推薦したことで抜擢され、蘭学の講義や兵学書の翻訳などを担当。無学であった嘉蔵は長崎、薩摩藩で造船を学び、村田とともに蒸気船の製造にあたります。

 こうした殖産興業・富国強兵策と積極的な人材登用により、宇和島藩の近代化は目覚ましく発展。宇和島藩は黒船来航からわずか3年後、薩摩藩に次ぐ国産第2号の蒸気船を完成させたのです。しかも薩摩藩の船は外国人技師が加わっていたのに対し、宇和島藩の蒸気船は日本人だけで作り上げたものでした。

 一連の改革によって藩の経済力・軍事力が増したことで、宗城の発言権は大きくなり、幕政にも参画します。幕末期、幕府をはじめ諸藩が財政難にあえぎながら外圧への対抗策を模索するなか、その困難から抜け出た藩が、国政を動かす「雄藩」として台頭したのです。宗城は、朝廷と幕府が手を結ぶ体制を目指す「公武合体派」の中心メンバーとして活躍しました。

 

ムダな戦争を避けるため、あの手この手の外交術

 宗城の外交術が最も冴えたのは、第二次長州征伐の頃です。… 続きを読む

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かみゆ歴史編集部

かみゆ歴史編集部

歴史コンテンツメーカー

歴史関連の書籍や雑誌、デジタル媒体の編集制作を行う。ジャンルは日本史・世界史全般、アート、日本文化、宗教・神話、観光ガイドなど。おもな編集制作物に『日本の山城100名城』(洋泉社)、『一度は行きたい日本の美城』(学研)、『戦国合戦パノラマ図鑑』(ポプラ社)、『系図でたどる日本の名家・名門』(宝島社)、『大江戸今昔マップ』(KADOKAWA)、『国分寺を歩く』(イカロス出版)など多数。お城イベントプロジェクト「城フェス」の企画・運営、アプリ「戦国武将占い」の企画・開発なども行う。公式サイトはwww.camiyu.jp

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