幕末藩主に学ぶリーダーの資質(第10回)

偉人を次々輩出、薩摩藩・島津斉彬の人材育成術とは

2015.04.23 Thu連載バックナンバー

 企業や組織が残ってゆくためには、何が一番必要でしょうか。潤沢な資金でしょうか、継続的な業務でしょうか。もちろんそれらも重要です。しかし、もっとシンプルで大切な要素があります。それは人材です。たとえリーダーの資質がある人物がいても、率いる人材がいなければ能力は発揮できません。

 特に、後進の育成は重要です。同じ人がずっと経営を続けるとどうしても淀みが生じますし、そもそも未来永劫にわたって経営を支えることは不可能です。企業や組織は生命体のようなものですから、きちんと新陳代謝しないと健康体ではいられません。

 人材育成は手間暇がかかり、大切とわかっていても充実させるのが難しい業務です。しかし、激動の幕末でそれを実現し、自藩を維新の中心へ送り出した人物がいます。薩摩藩主・島津斉彬(なりあきら)です。維新三傑のひとり・西郷隆盛の育ての親ともいえる斉彬は、どのような考えや手段で人材を登用し、育てたのでしょうか。

 

藩主就任までの長い道のり

 鎌倉時代から続く名門・島津家に生まれた斉彬は、10代藩主・島津斉興と、鳥取藩主・池田斉稷(なりとし)の妹である周子(かねこ)の間の嫡男です。母に帝王学を授けられたのち、曽祖父で8代藩主の重豪(しげひで)から海外の知識を学んで育ちました。周子は史記や漢書を嫁入り道具にするほど教養が深く、「蘭癖」と呼ばれた重豪は西洋文化に明るい人物で、母と曾祖父から受けた教育は斉彬に大きな影響を与えています。

 重豪はことあるごとに斉彬を賢い子だと褒め、「将来は名君と呼ばれる」と予言しました。その言葉は現実となりますが、意外にも道のりは険しいものでした。

 斉彬16歳のとき、周子が34歳で病死します。すると、斉興の側室・由羅が、自分の子で斉彬の弟に当たる久光を次期藩主にしたいと斉興にせがむようになるのです。美しい由羅の願いを無下にできない斉興は、斉彬が元服しても藩主の座を譲らず、こうして斉彬派と久光派が対立するお家騒動・お由羅騒動が勃発します。

 最終的に、幕府老中・阿部正弘などが斉彬の才覚を認めて味方したことで斉彬の11代藩主就任が決まり、斉興が隠居して騒動は終結しました。このとき斉彬は43歳。かなり遅い藩主デビューになりました。

 

幅広い人材登用で西郷隆盛を見出す

 重豪の薫陶を受けた斉彬は、藩主になると西洋技術を積極的に取り入れた藩運営をはじめます。その対象は多岐にわたり、国産初の蒸気船・雲行丸を完成させたほか、反射炉で大砲を製造したり、「薩摩切子」として現在も親しまれている着色カットグラスを開発したりしました。そして、収益が見込める工業製品は工場施設の集成館で量産し、産業として定着させたのです。

 まさに開明君主といえる、時代の最先端をゆく華やかな業績ですが、これは斉彬が「西洋技術をものにしなければ日本は世界に遅れを取り、いずれ侵略されてしまう」と考えた結果です。ただ西洋文化に心酔していたわけではないのです。

 むしろ斉彬の藩政に対する姿勢は野暮ったいほど実直で、… 続きを読む

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かみゆ歴史編集部

かみゆ歴史編集部

歴史コンテンツメーカー

歴史関連の書籍や雑誌、デジタル媒体の編集制作を行う。ジャンルは日本史・世界史全般、アート、日本文化、宗教・神話、観光ガイドなど。おもな編集制作物に『日本の山城100名城』(洋泉社)、『一度は行きたい日本の美城』(学研)、『戦国合戦パノラマ図鑑』(ポプラ社)、『系図でたどる日本の名家・名門』(宝島社)、『大江戸今昔マップ』(KADOKAWA)、『国分寺を歩く』(イカロス出版)など多数。お城イベントプロジェクト「城フェス」の企画・運営、アプリ「戦国武将占い」の企画・開発なども行う。公式サイトはwww.camiyu.jp

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