真のリーダーシップは危機的状況で発揮される(第3回)

八甲田山雪中行軍に見る、徳島大尉のリーダーシップ

2014.12.02 Tue連載バックナンバー

 リーダーたる者は、組織を正しい方向へと導くリーダーシップが求められる。それは自身やメンバーの生死を分けるような危機的な状況でこそ真価が問われる。

 前回は極寒の地で人類史上初の南極点到達を目指したアムンセン、スコットという2者のリーダーの例を見てきたが、日本でも極寒の中においてリーダーシップが生死を分けた例がある。日露戦争前夜に、陸軍が行った八甲田山雪中行軍演習だ。

 今回は完全踏破をした弘前第31聯隊と、死者199人を出した青森第5聯隊という対照的な結果になった両隊を前編・後編に分けて考察する。前編では、弘前第31聯隊の徳島大尉のリーダーシップについて考えてみる。

 なお、八甲田山雪中行軍については数多くの作品で取り上げてられているが、本記事は作家・新田次郎の著作『八甲田山 死の彷徨』に基づいて紹介する。

 

八甲田山雪中行軍演習 ~日露戦争前夜~

 日本とロシアの戦争が避けられない状況になった1901(明治34)年11月末、青森の陸軍第4旅団庁舎に2つの聯隊(れんたい、軍隊の部隊編成のひとつ)の将校たちが呼び集められた。

 一方は弘前第31聯隊長・小島大佐、同第1大隊長・門間少佐、同第2中隊長・徳島大尉であり、もう一方は青森第5聯隊長・津村中佐、同第2大隊長・山田少佐、同第5中隊長・神田大尉の6名である。

 彼らが属する第4旅団長・友田少将と第8師団参謀長・中林中佐から、陸軍にとって準備が不足しているのは寒冷地における装備と教育だと説明された後に、徳島大尉と神田大尉が名指しされて、「冬の八甲田山を歩いてみたいと思わないか」と尋ねられる。

 質問の形式をとってはいるが、上官からの質問は命令と同じだ。2人はハイと答えるしかない。

 さらに2人の大尉の上官たちの間で、予定時期は翌年の1月末から2月、それぞれの隊は営舎を出発して八甲田山中ですれ違うということまでが決定された。

 

ノンキャリアの星 ~神田大尉の人柄~

 青森5聯隊の神田大尉は、士官学校ではなく教導団(後の陸軍兵学校)を出た聯隊生え抜きで、その年に大尉に昇進したばかりだった。当時の将校は華族や士族出身者が多く、平民から将校にまで累進するのは珍しかった。現代風に言えばノンキャリアの星である。面倒見が良く部下たちから慕われていた。また、上官に対しては従順で、着実に任務を果たす実務派でもあった。

 神田大尉自身は、士官学校出身でないことに劣等感を持っていて、それが何事にも細心の注意を払う慎重な行動として現れていたが、上官の山田少佐からはおとなしすぎる、派手さに欠けるという印象を持たれてもいた。

 山田少佐の神田大尉への印象と神田大尉自身の劣等感による、わずかなすれ違いが八甲田山雪中行軍の大きな悲劇につながることになる。

 

芽生えた友情 ~八甲田山での再会を約す~

 12月に入ってすぐ、神田大尉は徳島大尉の官舎を訪れた。徳島大尉には岩木山における雪中行軍の経験があったため、そこから得られた教訓や助言を求めての訪問で、ここにも神田大尉の慎重な性格を見ることができる。

 徳島大尉は、神田大尉に好感を覚え、以下のような知る限りの助言を惜しみなく与えた。… 続きを読む

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結城 数馬

結城 数馬

フリーライター

歴史・文学からビジネス、スポーツ等、幅広い分野において執筆を行う。共著に『武田勝頼の滅亡は武田信玄の残したリソースを有効活用できなかったことに尽きる』『IT・ベンチャー企業の組織作りは豊臣政権崩壊に学べ』『新約 真田幸村』『信長のおばさん』等(全て、まんがびと刊)がある。

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