旅する「真田丸」~真田一族の聖地巡礼(第5回)

松代城/信之が築いた真田家安住の居城

2016.06.26 Sun連載バックナンバー

 真田信繁(幸村)の兄・信之というと、これまでは“日陰”の存在で、華々しく戦場に散った幸村に比べて地味な存在であった。しかし近年では、徳川家への義理を貫いた“義”の人、そして幽閉された父弟を支え、家名を守った“信念”の人として、再評価を受けている。若い歴史ファンに人気のゲーム「戦国無双」(コーエーテクモゲームス)のサイト上で行われた人気投票では、弟・幸村に次ぐ第5位にランクインした(2015年実施)。

 その信之は、大坂夏の陣から7年後の1622(元和元)年、松代(まつしろ、現在の長野市南東部)の地へと移封となった。石高は3万5,000石の加増であったが、当時の松代城下は整備が進んでおらず、第二次上田合戦で真田家に煮え湯を飲まされた2代将軍・秀忠の当てこすりとする向きもある。実際、信之は、「子孫のためになるだろうから命令には従う」と、無念さをにじませる書状を家臣に送っている。

 父祖伝来の上田を追われるかたちとなった信之だが、新天地となった松代の開発に後半生のすべてを費やすことになる。信之が発展に尽力した松代は江戸時代を通じて北信地方(長野県北部)の中心地となり、のちには幕府老中を輩出するほど繁栄した。その松代藩の政庁となったのが松代城である。

 

松代城の前身は川中島合戦の前線基地だった海津城

 松代城の前身を海津城(かいづじょう)という。海津城は武田信玄と上杉謙信の一騎討ちで有名な第四次川中島の戦いにおいて、武田軍の本拠地となった城であった。この時の川中島の戦いで、信之の父・昌幸が初陣を飾ったといわれている。つまり松代は、真田家にとってまったくゆかりのない土地ではなかったのだ。

  海津城はその後も松代統治の中心地であり続けた。関ヶ原合戦後に森忠政(ただまさ、森蘭丸の弟)が城主になると、森家にとって待望の城主復活となったため、「待城(まつしろ)」へと改名された。さらに3年後、徳川家康の6男である松平忠輝が城主となっため、その一字をとって「松城」に変わったといわれている。城主が変遷するごとに、土づくりの城から石垣による近世城郭へと徐々に変貌していき、信之の時代に城は完成を見ることになる。

 松代城の最大の特徴は、平地に築かれた「平城」であることだ。合戦が常態化していた戦国時代の城は、通常丘陵や山の山頂に築かれるもの。しかし松代城(海津城)が平地でも前線基地として機能したのは、… 続きを読む

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かみゆ歴史編集部

かみゆ歴史編集部

歴史コンテンツメーカー

歴史関連の書籍や雑誌、デジタル媒体の編集制作を行う。ジャンルは日本史・世界史全般、アート、日本文化、宗教・神話、観光ガイドなど。おもな編集制作物に『日本の山城100名城』(洋泉社)、『一度は行きたい日本の美城』(学研)、『戦国合戦パノラマ図鑑』(ポプラ社)、『系図でたどる日本の名家・名門』(宝島社)、『大江戸今昔マップ』(KADOKAWA)、『国分寺を歩く』(イカロス出版)など多数。お城イベントプロジェクト「城フェス」の企画・運営、アプリ「戦国武将占い」の企画・開発なども行う。公式サイトはwww.camiyu.jp

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