旅する「真田丸」~真田一族の聖地巡礼(第10回)

大坂夏の陣/真田幸村、最期の死闘の舞台を辿る

2016.11.30 Wed連載バックナンバー

 大河ドラマ「真田丸」の第46回「砲弾」(11月20日放映)の中で、真田丸での大勝を受けて決戦を望む豊臣秀頼を、真田幸村(信繁)が次のように言って諭すシーンがある。「城にいる限り我らは負けませぬ/なすべきは城を守り抜くこと/さすれば敵の中に心変わりする者が必ず現れます」

 そのとおりだったかもしれない。

 大坂冬の陣で、徳川軍は「惣構(そうがまえ)」と呼ばれる大坂城の周囲に築かれた堀を破ることはできなかった。真田丸は惣構から突出する位置に築かれ、徳川軍の侵攻を阻み、結局徳川方は20万ともされる大軍で取り囲みながら、一兵たりとも城内に入ることはできなかったのだ。秀頼の父・秀吉の築いた大坂城は、それほど鉄壁だったのである。

 しかし、籠城戦は城外の味方からの援軍、いわゆる「後詰(ごづ)め」があって初めて成り立つ。後詰めの望めない籠城戦に未来はない。真田丸での大勝後に豊臣方ができたことは、よりよい条件で和議を結ぶか、じっと耐えて豊臣に味方する大名を待つしかなかった。しかし、第47回「反撃」(11月27日放映)で描かれたように、砲撃に怖れおののいた淀殿ら豊臣方首脳陣は、真田丸を含む惣構の破壊、堀の埋め立てという最悪の条件で徳川家康と和睦を結んでしまった。

 堀のない城は翼のもげた鳥と同じだ。大坂夏の陣ははじめから勝敗の見えた合戦であり、京都を出陣する家康が「3日の腰兵糧で十分」と命じたとおり、実際にわずか3日で決着がついたのである。

 

奮戦の末に討ち死にした2人の武者【八尾・若江の戦い、道明寺の戦い】

 家康が京都を発したのは5月5日のこと。豊臣方にできることは、城が囲まれる前に進軍してくる徳川方を要衝で叩くしかない。夏の陣の戦火が開いたのは、徳川方の兵站基地となっていた堺であった。大野治房が堺を急襲すると、その先鋒隊と徳川方の浅野勢との間で樫井の戦いが勃発。冬の陣の夜襲で徳川方に一泡吹かせた塙団右衛門らが戦死した。

 5月6日には、大和(奈良)方面から進軍してくる徳川軍主力を迎え撃つため、八尾・若江の戦いと道明寺の戦いが起こる。八尾・若江の戦いで奮戦したのが、まだ二十歳前後だったとされる若き木村重成と、四国の雄・長宗我部元親の息子・盛親である。長宗我部盛親は歴戦の武者である藤堂高虎が一時撤退するほど痛撃を加えるも、井伊直孝と相対した木村重成は経験のなさが響き乱戦の末に戦死してしまう。重成討ち死にの報を聞いた盛親は、戦果を惜しみながらも大坂城に撤退した。

 同日、大和路を進む徳川軍を、川と丘陵に挟まれた要衝の小松山で迎え撃ったのが後藤又兵衛である。この迎撃作戦には幸村と毛利勝永、明石全登ら“大坂五人衆”のメンバーも加わる予定で、彼らは前日に野戦陣地で盃を酌み交わし、「家康・秀忠の首を獲るか、全員が討ち果てるまで戦おう」と誓い合ったという。大坂五人衆はこの戦いを“天王山”と捉えていたのだ。

 しかし、真田・毛利隊が濃霧によって道に迷ってしまい、後藤隊だけが突出するかたちで徳川軍と遭遇してしまった。作戦が破綻したことを知った又兵衛だが、… 続きを読む

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かみゆ歴史編集部

かみゆ歴史編集部

歴史コンテンツメーカー

歴史関連の書籍や雑誌、デジタル媒体の編集制作を行う。ジャンルは日本史・世界史全般、アート、日本文化、宗教・神話、観光ガイドなど。おもな編集制作物に『日本の山城100名城』(洋泉社)、『一度は行きたい日本の美城』(学研)、『戦国合戦パノラマ図鑑』(ポプラ社)、『系図でたどる日本の名家・名門』(宝島社)、『大江戸今昔マップ』(KADOKAWA)、『国分寺を歩く』(イカロス出版)など多数。お城イベントプロジェクト「城フェス」の企画・運営、アプリ「戦国武将占い」の企画・開発なども行う。公式サイトはwww.camiyu.jp

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