合戦の真実 ~何が勝敗を分けたのか?(第3回)

鳥羽・伏見の戦い/時代を決したリーダーの覚悟の差

2015.05.22 Fri連載バックナンバー

 鳥羽・伏見の戦いは、幕末の最終局面に勃発した軍事衝突である。薩摩・長州を中心とする明治新政府軍(以下、新政府軍)に対して旧江戸幕府軍(以下、旧幕軍)は惨敗を喫し、それを受けて江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜が大坂城から脱出。この敵前逃亡が、徳川政権崩壊の直接的な、そして最終的な引き金となった。

 江戸幕府崩壊から明治新政府樹立という歴史の推移を見ると、鳥羽・伏見の戦いにおける旧幕軍の敗退は歴史の必然のようにとらえられがちだ。しかし、合戦が勃発するまでは、軍事的にも政治的にもどちらに転ぶか予断を許さない状況にあった。

 しかも、鳥羽・伏見の戦いでは旧幕軍のほうが3倍近くも兵数が多い状況であった。にもかかわらず、旧幕軍が無様な敗北を喫したのはなぜなのか。圧倒的な兵力差をくつがえした背景には、両軍リーダーの「覚悟」の差があった。

 

慶喜がリードしていた合戦前夜の政治状況

 1867(慶応3)年10月、徳川慶喜は朝廷に政権を返上する。一般には、この大政奉還によって政権は明治新政府へと移行されたと考えられがちだが、内情はもっと複雑であった。慶喜が政権を返上しても、朝廷には国を動かすような政治機構もその能力も皆無であり、徳川家中心の政府が継続する可能性が高かったからだ。

 それに危機感を覚えた薩摩藩の西郷隆盛大久保利通、公家の岩倉具視ら武力討幕派は、同年12月9日、王政復古の大号令を発する。慶喜の将軍職辞職と幕府の廃止を命じ、天皇親政による新政府成立を宣言したのだ。

 しかし、京都を追われ政治的に追い詰められながらも、慶喜は強気だった。福井藩の松平春嶽や土佐藩の山内容堂らと連携して朝廷と交渉し、新政府内の議定就任の内諾を得る。さらに、英米など諸外国との外交交渉も継続して慶喜がとり仕切った。慶喜は大坂城にいながら、実権を手放す気などさらさらなかったのである。

 この状況下で、江戸において幕府軍の薩摩藩邸焼き討ちという大事件が勃発する。この頃、西郷隆盛は薩摩配下の狼藉者を使って江戸市中で殺人・強盗などのテロ行為を行わせ、幕府を挑発していた。その報復として、幕府側が薩摩藩邸を攻撃し焼失させたのである。

 この報はすぐさま上方に伝えられた。自分の謀略通り、武力による幕府打倒の名目を得た西郷はほくそ笑んだことだろう。

 一方、大坂城に集っていた旧幕軍の将兵らもいきり立ち、薩摩打倒の気勢は大いに上がった。慶喜は翌1868(慶応4)年元旦に「討薩の表」を発し、薩摩の武力討伐を宣言するのである。ただし、慶喜は薩摩と一戦を交える意志は薄く、討薩の表は抗戦派の勢いに負けてやむなく出されたといわれている。

 

戦闘を想定していなかった慶喜と旧幕軍

 1月3日、討薩を掲げる旧幕軍は、大坂から京都へ向けて街道を北上。京都南部の鳥羽と伏見(京都市南区、伏見区)に差し掛かったところで、待ち構えていた新政府軍と相対した。すぐに戦闘が開始されたわけではない。旧幕軍は京都までの通行を求め、薩摩側は朝廷に確認をとるので待てとお互いに対峙する。

 火ぶたが切って落とされたのは、日も沈みかけた午後5時頃であった。押し問答の末に、焦れた旧幕軍が強行突破をはかろうとしたのである。ただし、このとき先頭を行く歩兵隊は銃に装弾していなかった。戦闘になるなどはなから想定していなかったのだ。… 続きを読む

全文(続き)を読む

続きを読むにはログインが必要です。

まだ会員でない方は、会員登録(無料)いただくと、続きが読めます。

かみゆ歴史編集部

かみゆ歴史編集部

歴史コンテンツメーカー

歴史関連の書籍や雑誌、デジタル媒体の編集制作を行う。ジャンルは日本史・世界史全般、アート、日本文化、宗教・神話、観光ガイドなど。おもな編集制作物に『日本の山城100名城』(洋泉社)、『一度は行きたい日本の美城』(学研)、『戦国合戦パノラマ図鑑』(ポプラ社)、『系図でたどる日本の名家・名門』(宝島社)、『大江戸今昔マップ』(KADOKAWA)、『国分寺を歩く』(イカロス出版)など多数。お城イベントプロジェクト「城フェス」の企画・運営、アプリ「戦国武将占い」の企画・開発なども行う。公式サイトはwww.camiyu.jp

このページの先頭へ
Bizコンパス公式Facebook Bizコンパス公式Twitter