合戦の真実 ~何が勝敗を分けたのか?(第2回)

川中島の戦い/宿命の対決に勝者はいたのか?

2015.04.28 Tue連載バックナンバー

 数ある戦国時代の合戦の中でも、1、2を争うほどの高い知名度を誇る武田信玄と上杉謙信。その両雄が激突したのが川中島の戦いである。信玄と謙信の“一騎打ち”の場面や、山本勘助の“啄木鳥(キツツキ)戦法”、上杉軍の“車懸かりの陣”などを思い浮かべる方も多いのではないだろうか。

 一般的に、川中島の戦いは双方に大きな損失を出しつつも、決着がはっきりしないとされる。なぜ5回に及んだ戦いは引き分けとされてきたのだろうか?本当の勝者がいたとすれば、それは誰なのか?

 真実の川中島の戦いに迫ってみたい。

 

川中島の戦いが行われた背景

 川中島の戦いは、甲斐(山梨県)の武田信玄と越後(新潟県)の上杉謙信が、信濃(長野県)の川中島において1553(天文22)年から1564(永禄7)年の間に計5回に及んで対峙した合戦の総称である。

 合戦の舞台となった川中島は、長野県を代表する河川である千曲川と犀川の合流地点に位置する三角地帯である。古来から信仰を集める善光寺とその門前町がある善光寺平の南側に位置し、松本平などの信濃中部と北信地方や越後を結ぶ交通の要衝であった。

 計5回の合戦は、それぞれ“布施の戦い”“犀川の戦い”“上野原の戦い”“八幡原の戦い”“塩崎の対陣”という名称がつけられている。しかし、5回に及ぶ戦いすべてで両軍の大規模な激突があったわけではない。5回の戦いの中で実際に合戦に及んだのは、第2次川中島の戦い(犀川の戦い)と第4次川中島の戦い(八幡原の戦い)の2回のみだけとされる。このことから、川中島の戦い「2回説」を唱える見方もある。

 特に有名なのは、第4次川中島の戦い(八幡原の戦い)である。大規模な正面衝突となり、信玄と謙信の一騎討ちが起こったとも伝えられる合戦だ。川中島の戦いというと、この第4次を指すのが一般的である。

 そもそも両者が川中島で戦いに至ったのはなぜなのか。まず、信玄はクーデターによって父・信虎から実権を奪った後、自国甲斐の隣国である信濃に自分に対抗できるほどの勢力がいないとみて同国侵攻を開始し、川中島まで進出することになった。信玄はさらに北上を進め、最終的には日本海側の領土獲得も視野に侵攻していたという。

 近年では、信玄の北信濃進出は食料対策だったとも指摘されている。甲斐では疫病や洪水、飢饉等が間断なく続き、領民の食糧事情は安定しなかった。北信濃進出は食糧や資源の獲得のためという側面もあったようだ。

 一方の謙信の下には、信玄に追われた村上義清など北信濃の諸将が逃げ込んでいた。謙信は彼らの庇護と旧領回復を目的として北信濃へ侵出したが、実際は越後防衛のための進軍であった。

 このように、両者とも強い領土的な野心があったわけではないため、積極的な軍事行動を行っても得られるものは少なかった。そのため相手を牽制することに終始し、必要以上の軍事衝突は避けていたのである。

 

大激戦となった第4次川中島の戦い

 ではなぜ、第4次川中島の戦いでは大激戦となったのだろうか。まず、一般に伝えられているこの合戦の推移から見ていこう。

 1561(永禄4)年、北信濃へ着々と領土拡大を進めていた信玄を抑える必要があった謙信は、川中島の南にある妻女山に着陣。一方、信玄は新築の海津城を本拠として対峙し、膠着状態が続くこととなる。

 先に仕掛けたのは武田軍だった。… 続きを読む

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かみゆ歴史編集部

かみゆ歴史編集部

歴史コンテンツメーカー

歴史関連の書籍や雑誌、デジタル媒体の編集制作を行う。ジャンルは日本史・世界史全般、アート、日本文化、宗教・神話、観光ガイドなど。おもな編集制作物に『日本の山城100名城』(洋泉社)、『一度は行きたい日本の美城』(学研)、『戦国合戦パノラマ図鑑』(ポプラ社)、『系図でたどる日本の名家・名門』(宝島社)、『大江戸今昔マップ』(KADOKAWA)、『国分寺を歩く』(イカロス出版)など多数。お城イベントプロジェクト「城フェス」の企画・運営、アプリ「戦国武将占い」の企画・開発なども行う。公式サイトはwww.camiyu.jp

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