合戦の真実 ~何が勝敗を分けたのか?(第1回)

桶狭間の戦い/奇襲ではなく信長の正面攻撃だった!?

2015.04.08 Wed連載バックナンバー

 歴史の“常識”または“定説”と呼ばれていたものが覆ることは多々ある。たとえば、聖徳太子は近年では厩戸皇子(うまやどのおうじ)と呼ばれているし、教科書でおなじみの源頼朝の肖像は、じつは足利尊氏の弟・直義を描いたという説が有力になりつつある。調査・研究や発掘などによってこれまでの常識が否定され、新たな定説が生み出されるという過程は、歴史ジャンルのもっともスリリングな点であり、歴史ウォッチを続ける醍醐味でもある。

 特に合戦の分野では、常識・定説が覆ることが多い。勝者によって話しが盛られ、事実が改ざんして伝わることがあるためだ。私たちが常識・定説と思っているストーリーが、後世の創作だったというケースは多々ある。本連載では、近年の調査・研究なども踏まえながら、各合戦がまとっている“虚構”の部分をなるべく排除し、本当はどういう戦いだったのかに迫りたい。

 第1回目の今回は、若き織田信長今川義元の首を獲ったことで名高い桶狭間の戦いを取り上げる。この合戦ほど、一般に知られるイメージと史実のギャップが激しい戦いはほかにないだろう。

 

開戦の理由はよくある国境争いだった

 敵兵に気づかれずに、義元本陣を見下ろす高台に現れた織田軍。雷光が轟き大粒の雨が振りつける中、信長の合図で寡兵の織田軍は義元目指して崖を駆け下った——。

 桶狭間の戦いのハイライトシーンを、このようにイメージしている人は多いのではないだろうか。信長は夜半に少数の馬廻りを率いて、今川軍に気づかれないよう迂回して桶狭間まで進軍。谷間で陣を張る義元を見つけると、一気呵成にこれを攻め、義元を討ち取ったというストーリーである。ドラマやマンガなどでは、いまだにこの「迂回奇襲説」に乗っ取って描かれることは多い。

 しかし、本当の合戦の姿はこれとは大きく異なり、織田軍は今川軍の正面から攻めたという説が近年では定説になりつつある。この「正面攻撃説」についての解説は後回しにして、まずは合戦に至る経緯から追ってみよう。

 義元が尾張(愛知県西部)侵攻を開始し、桶狭間の戦いが起こったのは1560(永禄3)年のこと。当時、義元は駿河・遠江(ともに静岡県)・三河(愛知県東部)の3か国を有する大々名だったのに対し、信長はまだ尾張一国の支配も確立しておらず、基盤は不安定であった。大軍を率いた義元の侵攻は、信長にとっても家臣にとっても相当な恐怖だったはずだ。

 ところで、この義元の尾張侵攻は上洛作戦の第一歩と説明されることも多い。義元は京に上って天下に号令することが目的だったのであり、信長のいる尾張はただの通過点に過ぎなかったという説明だ。

 信長が後年、足利義昭とともに上洛を果たし、自ら天下人になることを志向したため、「戦国大名は誰もが天下統一を目指した」と錯覚しがちだ。しかし、毛利元就が子孫らに天下を目指すなと遺言したり、朝倉氏が将軍家の要請を受けても上洛しなかったように、戦国大名の誰もが都を目指していたわけではない。多くの大名は領土の維持と自らの基盤確立で精一杯だったのである。

 義元もその例外ではなく、天下など望んでいなかった。尾張侵攻については、上洛のための第一歩などではなく、信長との国境付近で勃発した争いを治めるための出陣だったという説が現在では一般的だ。尾張と三河の国境近くには鳴海城と大高城という今川方の2つの城郭があったが、1560年の2月から織田軍は砦を築いてこの2城を包囲していた。鳴海城と大高城を信長に奪取されたら、三河支配はたちまち危うくなる。味方の城が攻められた際に援軍を送ることを「後詰(ごづ)め」と呼ぶが、義元は2城を囲む織田軍を蹴散らすため、自ら後詰めに立ち上がったのである。

 今川軍の総数は2万から2万5,000人程度だったとされる。その先発隊が国境を越え、織田軍の砦に攻め入ったという報を聞いた信長は、すぐさま起き上がり、戦準備をさせた。謡曲『敦盛』の一節、「人間五十年、下天の内をくらぶれば……」を舞い、寡兵を率いて出陣したあの有名なシーンである。

 

はじめから引き分け狙いだった信長

 清須城を出陣した信長は、熱田神宮で戦勝祈願をした後、自軍の善照寺砦に入り後続兵の到着を待った。「迂回奇襲説」だと、織田軍はその後大きく迂回して、山間部の低地に陣取る義元本隊のそばまで移動したとされるが、現在ではこの進軍ルートを否定されている。… 続きを読む

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かみゆ歴史編集部

かみゆ歴史編集部

歴史コンテンツメーカー

歴史関連の書籍や雑誌、デジタル媒体の編集制作を行う。ジャンルは日本史・世界史全般、アート、日本文化、宗教・神話、観光ガイドなど。おもな編集制作物に『日本の山城100名城』(洋泉社)、『一度は行きたい日本の美城』(学研)、『戦国合戦パノラマ図鑑』(ポプラ社)、『系図でたどる日本の名家・名門』(宝島社)、『大江戸今昔マップ』(KADOKAWA)、『国分寺を歩く』(イカロス出版)など多数。お城イベントプロジェクト「城フェス」の企画・運営、アプリ「戦国武将占い」の企画・開発なども行う。公式サイトはwww.camiyu.jp

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