伝説の日本刀~知られざる名刀ヒストリー(第5回)

覇王・信長の手に落ちた天下人の象徴「宗三左文字」

2015.06.15 Mon連載バックナンバー

 戦国時代において、日本刀は戦いにおける主要な武器ではなかった。槍や弓矢を使った戦法が主流であり、刀はあくまで護身のため身につけていたとされている。足軽のような下級の武士ならばともかく、大将クラスの人物が戦場で腰の刀を抜くということは、もはや死の淵にまで追いやられてしまったことと同義なのだ。

 それでも彼らが刀を身につけた理由のひとつは、刀には破邪の力が宿っていると信じられていたからだ。武将にとって刀は心身の守護者であり、崇高な存在だった。名刀のなかの名刀とされる天下五剣の「三日月宗近(みかづきむねちか)」や「童子切安綱(どうじぎりやすつな)」をはじめ、名だたる名刀は時の権力者の手を経ている。名将たちが愛した名刀を腰に帯びるということは、権力者のステータスでもあった。

 今回登場する名刀「宗三左文字(そうさんさもじ、別名・義元左文字[よしもとさもじ])」は、今川義元をはじめ、織田信長豊臣秀吉徳川家康という戦国の権力者3名の手を渡り歩いた、まさに天下人に愛された刀である。

 

東海道一の弓取り・今川義元の敗退

 戦国時代における奇跡の一戦・桶狭間の戦い。駿府、遠江、三河、尾張の一部(現在の静岡県から愛知県西部)まで勢力を広げていた今川義元と、弱冠26歳の織田信長が激突した世紀の合戦である。宗三左文字は、この戦いに立ち会う。

 宗三は、もともと四国の武将・三好宗三(みよしそうさん)が所持していたため、この名で呼ばれるようになった。今川家と同盟を結んでいた武田家に送られたのは、大永7(1527)年のこと。当時の当主・武田信虎(のぶとら)の息女が今川義元に輿入れした際、引き出物として義元の手に渡ったのである。

 以降、義元はこの一振りを大変気に入り、好んで帯びるようになった。そして、桶狭間の決戦の日も宗三は義元の腰にあった。

 一般的に義元というと、公家かぶれの白塗りで軟弱なイメージがつきまとう。しかしその実、領民に慕われ、経済感覚も鋭く、「東海道一の弓取り」と称されるほどの戦上手。足利将軍家との血縁もある名門の出身であり、天下人に名乗りを挙げるには充分な人物だったのである。

 対する織田家は尾張の弱小勢力。信長本人でさえ、桶狭間で義元に勝利できるとは考えていなかっただろう。

 ところが永禄3(1560)年5月19日、桶狭間は突然の豪雨に襲われる。この天候の激変を境に形勢は織田軍に傾いた。信長は正面から今川軍に突撃。大混戦となる中、義元は自ら抜刀し、幾太刀もの傷を受けながら命尽きるまで戦い続けた。この時振るった刀が宗三であったかは定かでないが、名将・義元の突然の死であった。

 

茎に刻まれた覇王の名 「天下人の刀」のはじまり… 続きを読む

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かみゆ歴史編集部

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歴史コンテンツメーカー

歴史関連の書籍や雑誌、デジタル媒体の編集制作を行う。ジャンルは日本史・世界史全般、アート、日本文化、宗教・神話、観光ガイドなど。おもな編集制作物に『日本の山城100名城』(洋泉社)、『一度は行きたい日本の美城』(学研)、『戦国合戦パノラマ図鑑』(ポプラ社)、『系図でたどる日本の名家・名門』(宝島社)、『大江戸今昔マップ』(KADOKAWA)、『国分寺を歩く』(イカロス出版)など多数。お城イベントプロジェクト「城フェス」の企画・運営、アプリ「戦国武将占い」の企画・開発なども行う。公式サイトはwww.camiyu.jp

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