読むウイスキー~ウイスキーを味わうためのコラム(第1回)

マッサンも修行した「ウイスキーの首都」はいま

2015.02.20 Fri連載バックナンバー

 連続テレビ小説『マッサン』の視聴率が高く、人気を集めています。このマッサンとは、“日本のウィスキーの父”とも呼ばれる竹鶴政孝氏のこと。彼は、造り酒屋に生まれるも、本格国産ウィスキー造りのために単身スコットランドへ行き、グラスゴー大学で応用化学と有機化学を学びます。

 このとき運命の出会いをするのが、後に妻となるリタ。家族全員に反対されるも駆け落ち同然に結婚し、その後、夫婦で日本に来ることになります。

 そして、このスコットランド滞在中にウィスキー造りの実習の場として選んだのが、かつてスコッチウィスキーの中心地となっていたキャンベルタウン地区にある「ヘーゼルバーン蒸留所」でした。竹鶴氏は、新婚のリタ夫人と一緒にキャンベルタウンに滞在し、1920年1月から約5ヶ月間、ウィスキーの製造方法について修行したとのことです。

 しかしそんなウィスキーの故郷も、今では数軒の蒸留所が残るのみ。なぜ同地のウィスキーづくりは廃れたのでしょうか?

 今回は、そんな竹鶴氏との縁が深いヘーゼルバーン蒸留所の興亡と復活を見てみましょう。

 

スコッチウィスキーで栄華を極めたキャンベルタウン

 キャンベルタウン地区は、スコットランド最大の都市・グラスゴーからは200キロ以上も離れた陸の孤島のような場所にありますが、最盛期には30以上もの蒸留所があり、“世界のウィスキーの首都”と呼ばれるほど繁栄しました。竹鶴氏が修行した当時も20ほどの蒸留所が操業していました。

 蒸留所のスコットランド人たちにとって、見慣れない東洋人の竹鶴氏に対して手取り足取りという訳にはいかず、やはり厳しい修行だったのは想像に難くないところです。しかし、竹鶴氏はポットスチル(蒸留釜)の清掃を自ら買って出て、掃除をしながら内部構造を克明にメモして残して日本に持ち帰ったとのこと。この努力が原動力となり、今日のジャパニーズ・ウィスキーが成功し、世界に注目されるまでになったといえるのです。

 このことについて、英国のヒューム外相が1962年に来日したときに「日本1人の青年が、1本の万年筆とノートでウィスキーの製造技術の秘密を全部盗んでいった」と、皮肉とも賞賛ともとれる発言をしているのも興味深いところです。

 

禁酒法によるヘーゼルバーン蒸留所の閉鎖

 どれほど栄えたものでも必ず衰えるときが来るといわれますが、キャンベルタウンも例外ではなく、アメリカの禁酒法(1920年~1933年)の影響で衰退の一途を辿ります。… 続きを読む

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堀籠 しゅん

堀籠 しゅん

フリーライター

流行通信勤務後、フリーランスとなりマガジンハウス、集英社、講談社などで編集・執筆を担当。航空会社情報誌、企業PR誌で国内外を回る。『シングルモルトファン』、『シングルモルトファン2』(共にコスミック出版)の編集・執筆を行う。近著は『宮城の法則』(リンダパブリッシャーズ)。メンズファッション、グルメ、ホビー、トラベルが得意ジャンルで、書籍やWEBにて活動中。

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