上永哲矢の「三国志、歴史を変えた決断」(第8回)

兵は神速を尊ぶ!あえて深追いを進言した軍師・郭嘉

2015.01.28 Wed連載バックナンバー

水攻めで城を落とし、損害を最小限にとどめる

 三国志の登場人物で重要なのは「武将」だけではない。「軍師」と呼ばれる人々もまた、欠かすことのできない存在である。

 軍師といえば、当コラム第5回で紹介した諸葛亮(孔明)がその代名詞だが、彼は政治から外交まで何でもこなし、大軍の総指揮官もつとめたオールラウンドプレイヤー。後世の我々がイメージする軍師とは、戦場を陰で動かす存在。つまり野球でいえば、監督のそばにいる「ヘッドコーチ」のような人ではないかと思う。

 そういう意味での「軍師」の代表格が、郭嘉(かくか)である。

 

若くして曹操軍の中核を担う存在だった郭嘉

 曹操(そうそう)は、郭嘉と初めて会ったとき「この男がいれば、わしの大業も成せる」と評価し、郭嘉も「これぞ我が主君」と胸中で喜んだという。軍師を何人も召し抱え、組織化して運用していた曹操は、郭嘉をその筆頭格である「軍祭酒(ぐんさいしゅ)」という役職に任命し、重く用いた。

 以来、郭嘉は曹操にさまざまな策を献じたが、戦場で華々しいデビューを飾ったのが西暦198年、曹操による呂布(りょふ)討伐戦である。

 呂布といえば、当代最強の武勇を誇り、精強な騎兵を引き連れて曹操軍を苦しませた男だ。曹操は苦戦しながらも、知略を駆使して呂布軍を退け、徐州・下ヒ城(かひじょう)へと追い込んだ。とはいえ城の守りは堅く、容易に攻め落とせそうにない。

 このとき、郭嘉が進言したのが「水攻め」である。周囲を流れる川から水を引き、城を水没させて兵糧切れに追い込み、士気を喪失させるというもの。同じく曹操の軍師をつとめる荀攸(じゅんゆう)とともに考案した策だ。

 水攻めといえば、日本では1582年に、豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)が備中(びっちゅう)高松城を攻めたときに採用したことが知られているが、それより1400年近くも前に行なわれたことになる。

 この水攻めが功を奏し、呂布軍はひと月あまりの籠城戦の末に疲弊し、降伏した。郭嘉の進言により、力押しではなく損害を最小限にとどめて勝利できたのだ。

 

孫策の死を予言。驚異的な洞察力を発揮し始める

 それから2年後の西暦200年、曹操は袁紹(えんしょう)との決戦「官渡の戦い」に臨んだ。中国北部の覇権を賭けた天下分け目の合戦である。… 続きを読む

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上永 哲矢

上永 哲矢

歴史コラムニスト、フリーライター

各種雑誌・ムックに歴史や旅の記事・コラムを連載。戦国時代や幕末など日本史を得意分野とするほか、三国志歴30年以上の愛好家としてイベント・講演の企画運営や、三国志関連本の制作にも関わっている。神奈川県横浜市出身。「オフィス哲舟」代表。公式サイト:http://kakutei.cside.com/job/

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