上永哲矢の「三国志、歴史を変えた決断」(第6回)

破壊王・董卓、恐るべきスピードで都を乗っ取る

2014.12.19 Fri連載バックナンバー

気は優しくて力持ち? 異民族のカリスマだった董卓

 中国の長い歴史を振り返ると、「暴君」と呼ばれる人物が多く現れる。

 「酒池肉林」にふけった殷(いん)の紂王(ちゅうおう)、数百人の儒学者を生き埋めにした秦の始皇帝が代表格だ。明の張献忠(ちょう けんちゅう)、最近では毛沢東も暴君としばしば評される。総じて、名君と暴君の両面を併せ持つリーダーは多い。

 三国志の「暴君」といえば董卓(とうたく)である。日本の飛鳥時代に朝廷を牛耳った蘇我入鹿(そがのいるか)の政治が「董卓のようだった」と批判されたほどで、彼の悪名は古くから海を超えて届いていたという。

 そんな董卓だが、若い頃の彼は親分肌で気前が良く、人に好かれたようである。出生地は中国西北部の涼州というところで、シルクロードの出入口にあたる場所。現在のウイグル自治区の近くで、彼には遊牧民の血が混じっていたかもしれない。

 生まれつき腕力が非常に強く、武勇に長けていたほか、馬を巧みに操り、馬上から左右両方に弓矢を射ることができた。まだ鐙(あぶみ)などの馬具がなかったとされる時代、このような芸当はよほどに熟達していなければ出来るものではない。

 後年のことになるが、刺客に襲われたとき、董卓は素早く身をかわして一撃を避け、みずから刺客を捕らえたというから、並大抵の強さではなかった。

 羌族(きょうぞく)という遊牧民のリーダーたちが董卓のもとへ遊びに来るたび、彼は家畜の肉をふるまってもてなしたので、大いに感謝されていた。その後、漢の朝廷にしたがって、国境付近を脅かす異民族たちを何度も討伐し、武勇を轟かせる。それらの戦いの功績によって、朝廷から与えられた数多くの褒美をすべて部下に分け与えたという。辺境の地ではカリスマ的な存在として知られていたようだ。

 

諸侯に先んじて皇帝を保護し、あっという間に都を制圧!

 そんな董卓が歴史の表舞台に登場するのは西暦184年。大規模な農民反乱「黄巾の乱」が発生し、全国の豪族たちがこれを鎮圧するために立ち上がった。董卓も出兵したが、… 続きを読む

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上永 哲矢

上永 哲矢

歴史コラムニスト、フリーライター

各種雑誌・ムックに歴史や旅の記事・コラムを連載。戦国時代や幕末など日本史を得意分野とするほか、三国志歴30年以上の愛好家としてイベント・講演の企画運営や、三国志関連本の制作にも関わっている。神奈川県横浜市出身。「オフィス哲舟」代表。公式サイト:http://kakutei.cside.com/job/

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