上永哲矢の「三国志、歴史を変えた決断」(第50回)

「苦肉の策」で赤壁の逆転劇を生んだ忠臣・黄蓋

2017.08.24 Thu連載バックナンバー

 西暦208年、わずか数万の孫権劉備の連合軍が、80万と号す曹操軍を撃退した大逆転劇として知られる「赤壁の戦い」。

 この戦いを語るさい、一般的には孫権軍の司令官となった周瑜(しゅうゆ)や、劉備軍の軍師・諸葛亮(しょかつりょう)などの名が真っ先に挙がるだろう。しかし、その最大の功労者は誰かといえば、周瑜の部下として働いた黄蓋(こうがい)に他ならない。

 後年、小説『三国志演義』における「苦肉の策」(苦肉の計)というエピソードにまでなった。今回はその黄蓋の生涯を紐解いていきたい。

 

孫堅軍に加入し、三代に仕える功臣へ

 黄蓋が歴史の表舞台に出たのは、赤壁の戦いより20年ほど前になる。生まれは荊州(けいしゅう)南部の零陵(れいりょう)という場所で、現在の中国・湖南省のもっとも南に位置する永州市にあたる。大陸の中心部からだいぶ南方へ離れた地方都市であった。

 黄蓋は幼くして父を亡くし、薪を拾い集めるなどして生計を立てる合間、勉学に励んでいた。その努力が実を結び、やがて役人となって郡の役所に務めるようになる。

 そして西暦180年代の半ば、孫子(そんし)の末裔と呼ばれた孫堅(そんけん)が荊州南部の太守として赴任してきた。大規模な民衆反乱「黄巾の乱」が起きて以後、中華大陸は乱れに乱れていたのだ。

 孫堅は、この地で起きた反乱を鎮圧するため積極的に人材を集め、義勇兵を募る。若き黄蓋の決断は早かった。役人をやめ、武器を手に孫堅軍へ身を投じたのである。ここから軍人・黄蓋の人生は始まった。

 孫堅は南で反乱勢力を討ち、北では董卓(とうたく)軍を打ち破って勇名を轟かせていく。黄蓋もそれに従って転戦し、頭角をあらわしていった。しかし、その主君・孫堅は旗揚げから数年で不慮の戦死を遂げ、彼の事業は息子の孫策へ、そして孫権へと引き継がれていく。黄蓋は世代が代わろうとも孫一族を見捨てず、忠誠を尽くした。創業時からの功臣にして、孫家三代にわたる宿老的な立場になったのである。

 

役人の経験を生かし、政治家としても活躍

 黄蓋は叩き上げの軍人であるばかりか、役人時代の経験を生かした政治家としての才能も持っていた。住民たちが容易に従わなかったり、強盗団が荒らし回っているような地区があると、決まって黄蓋がその地に派遣され、鎮撫(ちんぶ、反乱や暴動を鎮めること)を命じられた。威厳に満ちた風貌を持ちながら民や兵たちには優しかったため、地方長官にうってつけの人材だったようだ。

 ある県では役人たちの風紀が乱れ、不正を働いて私腹を肥やすものがあった。黄蓋は… 続きを読む

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上永 哲矢

上永 哲矢

歴史コラムニスト、フリーライター

各種雑誌・ムックに歴史や旅の記事・コラムを連載。戦国時代や幕末など日本史を得意分野とするほか、三国志歴30年以上の愛好家としてイベント・講演の企画運営や、三国志関連本の制作にも関わっている。神奈川県横浜市出身。「オフィス哲舟」代表。公式サイト:http://kakutei.cside.com/job/

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