上永哲矢の「三国志、歴史を変えた決断」(第48回)

二君には仕えず!敗れし者の美学を貫いた名将・張任

2017.06.21 Wed連載バックナンバー

 日常生活で「義理」や「忠節」という言葉を出すのは、少し気恥かしい。だからこそ、歴史上の人物にそれを求めたくなる、という方は多いだろう。江戸時代の赤穂浪士や、戦国時代の山中鹿介(やまなか しかのすけ)のように、亡き主君のために命をかけて奔走する人物の生き様は美しい。「武士道」を地で行くような生き方に人は感動してやまないのだ。

 三国志においては関羽諸葛亮などがその代表格といえるが、実は彼ら以上ともいえる忠義の士が存在した。それが今回の主人公・張任(ちょうじん)ならびに、王累(おうるい)の両名である。端役に過ぎないが、読む者に鮮烈な印象を残してくれる者たちだ。

 

三国鼎立の時代、斜陽の益州に忠義の士が立つ

 三国志の「三国」のうち、蜀の国は中国南西部、いまの四川省に位置する益州という場所にあった。蜀を建国したのは劉備だが、それ以前は劉璋(りゅうしょう)という人物が、益州を治めていた。

 僻地に位置する益州は長く平穏を保っていたが、西暦208年「赤壁の戦い」が終わったあたりから、にわかに情勢が緊迫してくる。北方に台頭した新勢力・張魯(ちょうろ)が反乱を起こし、道教教団「五斗米道」(ごとべいどう)という一大組織となって、南下の機を窺うようになったのである。この危機に劉璋以下、益州の群臣たちは騒然となった。

「わが蜀の兵は戦に不慣れ。荊州(けいしゅう)の劉備に援軍を頼みましょう」。劉璋陣営では、そんな声が大半を占めた。劉璋はまともに戦の指揮をとったこともなく、おまけに覇気も無かったのである。

 臣下の中には、この機会に劉璋を見限り「劉備を新たな主君に迎えよう」と企んでいた者も多かった。そうとは知らぬ劉璋は、彼らの言葉に乗せられ、劉備に使者を送って援軍を求めた。それに応じた劉備が国境まで来ると、彼を出迎えるために城を出た。

 その時だった。劉璋は… 続きを読む

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二君には仕えず!敗れし者の美学を貫いた名将・張任
上永 哲矢

上永 哲矢

歴史コラムニスト、フリーライター

各種雑誌・ムックに歴史や旅の記事・コラムを連載。戦国時代や幕末など日本史を得意分野とするほか、三国志歴30年以上の愛好家としてイベント・講演の企画運営や、三国志関連本の制作にも関わっている。神奈川県横浜市出身。「オフィス哲舟」代表。公式サイト:http://kakutei.cside.com/job/

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