上永哲矢の「三国志、歴史を変えた決断」(第47回)

孫権の同級生から呉の大黒柱へ!大器晩成の将・朱然

2017.05.25 Thu連載バックナンバー

 三国志に少々、触れたことがあっても、朱然(しゅぜん)の名には「あまりピンと来ない」という方が多いかもしれない。小説『三国志演義』においては、脇役中の脇役といった扱いであり、ほとんど活躍することがないからだ。その理由は後述するが、史実における朱然は、まぎれもなく孫権(呉)軍の名将のひとりだった。

 朱然は、呉の3代目当主・孫権と同い年。互いにまだ幼い頃、一緒に机を並べて勉強をしていた同級生であった。孫権が19歳にして呉の当主の座につくと、朱然は地元に近い余姚(よよう)という県を治める役人に取り立てられ、順調に出世し、やがては兵2,000人を預かる身分になった。

 呉のトップと親しい「コネ人事」と言ってしまえばそれまでだが、ちゃんと実力もあったようだ。孫権に従おうとしない山越(さんえつ=中国南東部の少数民族)が反乱を起こしたとき、朱然はこれを討伐に赴き1カ月で平定した。官僚ではなく将としても順調に成長を遂げていたのである。

 

名将・関羽を捕らえる大金星を挙げる

 とはいえ、朱然が本格的に歴史の表舞台に立つのはもう少し先。それは彼が38歳を迎えた219年、荊州(けいしゅう)での関羽討伐戦の時のことだ。この戦いでは指揮官の呂蒙(りょもう)より別働隊を率いるよう命じられ、同僚の潘璋(はんしょう)とともに蜀の名将・関羽を追撃。ついに臨沮(りんそ)で退路を断ち、関羽を生け捕りにするという大手柄を立てたのである。

 これで一躍、名を高めた朱然を評価したのが、指揮官の呂蒙であった。当時、すでに呂蒙は病魔に侵されており、同年に42歳で世を去った。呂蒙は死ぬ間際、朱然を後任にするよう言い残したという。だが孫権は、贔屓だけの人事をしない男だ。軍の総責任者は1歳年下ながら一番に功績のあった陸遜(りくそん)に引き継がせ、朱然にはその代わりに関羽から奪い取った荊州・江陵(こうりょう)の守備を命じたのである。

 3年後の222年、蜀の劉備軍が攻め込てきた。関羽の敵を討ち、荊州を取り戻そうと大軍を率いてきた劉備の軍勢は士気旺盛だったが、陸遜の名采配で呉軍は勝利を収めた。勝利に沸き立つ味方の陣営で「白帝城に逃げた劉備を追撃しよう」という声が大半を占める。

 そんな中、朱然はいった。「北からは魏の軍勢が迫っています。深追いは禁物です」と慎重論を唱えたのである。すると陸遜も朱然の言葉を採用し、軍を引き揚げさせた。1歳年下の自分を立てつつ的確な判断をする朱然を、陸遜も深く信頼していたのだろう。

 ところが小説『三国志演義』では、この時の展開が大きく異なっている。朱然は自ら劉備の追撃を行ない、劉備を救援にきた趙雲と槍を交えるも敵わず、あえなく討たれて落命してしまうのである。小説では朱然の出番はここまで。大した見せ場もないままに退場するため、ほとんど読者の印象に残らないのだ。

 

魏軍を迎えた籠城戦で、その真価を発揮

 小説はさておき、史実において朱然の真価が発揮されるのはここからである。彼の見立て通り、魏の曹丕が荊州へと押し寄せてきた。攻めてきたのは曹真(そうしん)や張コウといった魏を代表する将軍たち。江陵の守将である朱然は堅く守りを固めた。呉からは援軍が派遣されたが、この援軍は張コウによって城外でたちまち破られ、魏軍は二重・三重にわたって江陵の包囲にかかった。また援軍が来たが、それも打ち破られた。

 孤立無援となった江陵城内では病気が流行し、戦える兵は5,000人ほどしかいなくなってしまう。なおも魏の猛攻が続き、部下たちは意気消沈。すっかり気力を失ってしまった。このままでは陥落も時間の問題である。だが、朱然だけは泰然としていた。

 「諦めるな!まだ勝機はある」とばかり、部下を励まして、すぐに出陣を命じたのである。その号令に兵たちは勇気づけられ、敵の陣をたちまち2つも落とした。城内にようやく活気が戻った。

 そのまま半年が過ぎたが、魏軍はなおも江陵を包囲し、攻め続けた。

 そうするうち、城の北側を守っていた部下の将が、魏軍と通じて投降を図っているという連絡が入る。放置すれば北門が破られてしまう。朱然はすぐにその部下をひっ捕らえて処刑した。こうして裏切り者がすぐに発覚したのも、管理が行き届き、部下たちが朱然を尊敬していたからだろう。

 万全の守りに対し、ついに魏の将軍たちも攻略を断念し、引き揚げていった。この江陵攻防戦によって、呉将・朱然の名は天下に轟いたのである。その後も、孫権の統治下にあった呉において、朱然は数多くの戦場に立ち功績を挙げ続けた。

 245年、陸遜が亡くなると孫権は朱然に軍権を継がせ、若い将たちのまとめ役も頼んだが、その4年後の249年、朱然は68歳で亡くなった。当時としては長命のほうだが、孫権が大いに嘆いたことは言うまでもない。長年苦楽を共にした幼なじみの死は、さぞ辛いものだっただろう。孫権もその3年後に71歳で亡くなった。

 朱然は身長が7尺(168㎝)に満たず、若い頃はあまり目立たなかったようだ。しかし、歳を重ねるごとに成長し、次第に呉の大黒柱のようになった。大器晩成型の人物だったのだろう。

 

1700年後、彼の墓から出てきたものは・・・・・・?

 朱然は、その死から約1,700年後に人々を大いに驚かせる。昭和59年(1984年)、安徽省の東にある馬鞍山(まあんざん)という町の工場建設予定地から古代の墓が発見された。墓は盗掘に遭っていたが、いわゆる「金目の物」以外の副葬品が多く残されており、その中からは木棺や衣服、食器類が出てきただけでなく、沢山の名刺が発見された。その木製の名刺に墨書きされていた名は「朱然」であった。

 三国志の時代は1,700~1,800年前。その英雄たちの墓は長い長い歳月の中に埋もれ、はっきりとした形で見つかることがほとんどない。見つかっても、曹操の墓かどうかで議論が起きるように、その墓の主が判然としないこともある。しかし、朱然の墓は例外中の例外で、まぎれもなく彼のものだ。名刺も世界最古に分類されるもので、歴史学・考古学的にも大きな発見だった。

 朱然が小説で貶められたのは、後世に英雄であり神となった関羽を捕らえたからであろう。よって後世、趙雲の「やられ役」として扱われることになってしまった。『三国志演義』の著者であるとされる羅貫中(らかんちゅう)や、それを語り継いできた人々も、まさか朱然の墓が見つかり、この世で再び脚光を浴びる日が来るとは思いもしなかったのだろう。

 筆者も『三国志演義』を愛する者のひとりだが、この朱然のような人物が貶められてしまう描写は残念でならない。ただ、小説の脇役に過ぎない人物が、歴史上で重要な活躍をしたという意外性に出会った時は、その新鮮な気付きに感動を覚えたものだ。まさに事実は小説より奇なり。百聞は一見に如かずの好例である。

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上永 哲矢

上永 哲矢

歴史コラムニスト、フリーライター

各種雑誌・ムックに歴史や旅の記事・コラムを連載。戦国時代や幕末など日本史を得意分野とするほか、三国志歴30年以上の愛好家としてイベント・講演の企画運営や、三国志関連本の制作にも関わっている。神奈川県横浜市出身。「オフィス哲舟」代表。公式サイト:http://kakutei.cside.com/job/

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