上永哲矢の「三国志、歴史を変えた決断」(第46回)

イエスマンになれず嫌われた、哀しみの軍師・田豊

2017.04.20 Thu連載バックナンバー

 どんなに優れた才能があっても、それを生かす術がなくては宝の持ち腐れとなる――。部下の提案を受け入れ、「決断」して実行に移すのはトップの役目だからだ。三国志の時代において、その言葉を痛いほどに感じさせてくれるのが、袁紹(えんしょう)に仕えた軍師・田豊(でんぽう)である。

 田豊は若いころ、都の洛陽で役人をしていた。博学多才、その有能ぶりはつとに評判だったが、後漢の朝廷は腐敗する一方。醜い権力抗争に嫌気がさした彼は、北方にある故郷の冀州(きしゅう)へ帰ってしまう。

 世が世なら、そのまま地方役人として一生涯を終えたであろう田豊。しかし、乱世は彼の運命の歯車を大きく動かす。

 

袁紹を支配者へと押し上げた功労者

 各地に群雄が割拠すると、袁紹が冀州の新たな支配者となった。その立役者となったのが、誰あろう田豊である。冀州を統治していたのは当初、韓馥(かんふく)という人物だった。その権力抗争のなかで、袁紹は韓馥に危うく殺害されるところだった。情勢を知り、見かねた田豊は韓馥の部下を殺害し、袁紹を窮地から救うとともに、韓馥から実権を奪う手助けをしたのだ。いわば、袁紹にとって田豊は恩人である。

 また田豊にとって、袁紹は冀州を統治するにふさわしい人物に見えたようだ。袁紹は威厳に満ちた風貌をしていたといい、それを見て「この男のもとなら己の才を生かせよう」と確信したのかもしれない。以後、両者は君臣の関係となり、大勢力を築き上げていくのである。

 袁紹の陣営は当初から磐石だったわけではない。周辺には多くの敵がいたが、中でも最大の強敵が、北方の有力者・公孫サン(こうそんさん)の軍勢であった。精強な騎兵を操る公孫軍に対し、袁紹軍は知略で対抗する。しかし、この戦いで田豊は袁紹とともに公孫軍の騎兵に包囲され、危機に見舞われてしまう。田豊は戦いを部下に任せ、袁紹には隠れるよう勧めたが、袁紹はそれを無視。兜を脱ぎ捨てて部下とともに奮闘し、危機を脱した。

 それが功を奏し、公孫軍との戦いに勝利した袁紹であったが、田豊の面目は潰された格好だ。思えば、この時から両者の「すれ違い」は始まっていたのかもしれない。

 数年後の西暦195年ごろ、漢の皇帝(献帝)が、董卓の死によって荒れ果てた都(長安)を脱出したとの報が入る。田豊は「またとない機会」とばかりに、ただちに献帝を保護するよう袁紹に勧めた。しかし、袁紹は… 続きを読む

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上永 哲矢

上永 哲矢

歴史コラムニスト、フリーライター

各種雑誌・ムックに歴史や旅の記事・コラムを連載。戦国時代や幕末など日本史を得意分野とするほか、三国志歴30年以上の愛好家としてイベント・講演の企画運営や、三国志関連本の制作にも関わっている。神奈川県横浜市出身。「オフィス哲舟」代表。公式サイト:http://kakutei.cside.com/job/

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