上永哲矢の「三国志、歴史を変えた決断」(第45回)

生き地獄を味わうも、筆を振るい続けた詩人王・曹植

2017.03.24 Fri連載バックナンバー

 曹操の息子といえば、第30回で紹介した曹丕(そうひ)が最もよく知られている。曹丕は曹操の跡を継ぎ、魏(ぎ)の初代皇帝となった嫡男だが、その弟に曹植(そうしょく)という人物がいた。李白(りはく)や、杜甫(とほ)に並ぶ「詩聖」の評価を受け、中国史を代表する詩人でもある。

 曹植は中国語で「Cao Zhi」(ツァオ・ヅィー)と発音するため、「そうち」と呼ぶほうが正しいが、日本では一般的に読みやすい「そうしょく」と呼ぶ人が多い。どちらでも、お好きな方でイメージしていただければと思う。

 

父の曹操も信じられないほどの文才を発揮

 曹植は西暦192年生まれ。曹丕より5歳下の弟であった。母親は卞(べん)夫人といい、曹操が最も愛したといわれる女性である。同じ母から生まれた兄弟は幼くして天才的な詩文の才能を持っていた。特に曹植は、10歳を過ぎる頃には古今の詩を暗誦でき、思いつくままに色々な文を書いた。父の曹操は信じられず、最初は「どうせ人に頼んで書いてもらったのだろう」と思い込んだほどである。

 曹操は自分が建てた壮麗な宮殿・銅雀台(どうじゃくだい)で宴を催し、そこに息子や家臣を集めて賦(ふ=中国の韻文・詩歌の類)を作らせた。すると曹植は、その場の誰よりも優れた作品をたちまち書いてみせた。曹操が感心し、曹植を溺愛するようになったのは言うまでもない。

 こうしたエピソードから、曹植は文人肌の人物と思われがちだ。しかし、実は立派な武人でもあった。北方の異民族である烏桓(うがん)討伐、西方で馬超軍や張魯(ちょうろ)軍と激突した潼関(どうかん)・漢中遠征など、父に従って数々の戦場に出ている。211年、潼関の戦いに従軍する曹植に対し、留守を預かることになった兄の曹丕は「感離の賦」を贈った。それに対し、曹植も陣中から「離思の賦」を書き送った。

 「秋の初めの月のもと、きらめく旗を掲げて西へ向かっています。私は病を抱いているため、車の横木にもたれかかっていて気分が優れません。この遠征をおもんばかり、あなたに別れの言葉をいう間もなく旅立ったのが心苦しいのです」

 病身で慌しく出立したため、兄に別れを告げる暇もなかったことを詫びたのだ。この兄弟愛に満ちた賦は、両者の仲が良好だったことを示すに十分である。

 

跡目争いに巻き込まれ、兄に疎まれる

 しかし、この兄弟の仲も曹操の後継者問題が浮上してきたあたりから、徐々にヒビが入り始める。群臣らは曹丕派と曹植派に分かれ、それぞれ権益もめぐっての跡目争いを始めた。わが国においては上杉景勝と景虎が争った「御館(おたて)の乱」、世界ではアレクサンダー大王の死に伴うディアドコイ戦争など、後継者問題による泥沼抗争は古今東西に通ずる問題である。

 曹丕派は、曹植の素行の悪さをあげつらった。曹植は極度の酒好きであり、細かいことを気にしない「気まま」な性格だった。この点は若き日の曹操ともよく似ていたのだが、それが折り目の正しい人からすると「だらしない」と見えたようである。一方の兄・曹丕は人目を意識して品行方正に振舞ったため、宮廷の側近や女性たちの多くは曹丕に肩入れし、曹植の悪評はさらに広まってしまったという。

 そんな矢先、ある事件が起きる。… 続きを読む

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上永 哲矢

歴史コラムニスト、フリーライター

各種雑誌・ムックに歴史や旅の記事・コラムを連載。戦国時代や幕末など日本史を得意分野とするほか、三国志歴30年以上の愛好家としてイベント・講演の企画運営や、三国志関連本の制作にも関わっている。神奈川県横浜市出身。「オフィス哲舟」代表。公式サイト:http://kakutei.cside.com/job/

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