上永哲矢の「三国志、歴史を変えた決断」(第44回)

超一流の文化人・孔融は、なぜ曹操に嫌われたのか?

2017.02.24 Fri連載バックナンバー

 中国史に詳しくなくとも、孔子(こうし)の名を知る方は多いだろう。紀元前4~5世紀の思想家であり、儒教の創始者・『論語』の著者として名高く、儒教(儒学)が尊ばれた日本にも大きな影響を与えた人物である。

 三国志には、その孔子の子孫が登場する。孔子から数えて20代目にあたる孔融(153~208年)である。現在の山東半島・青州は孔子の故郷として知られるが、孔融も同地で生を受けた。

 この孔融、三国志演義を題材にした映画『レッドクリフ』にも登場する。冒頭、出陣しようとする曹操を諌めるも、怒りを買って斬られてしまうという役回りである。「ああ、そういえば居たね」程度の印象を留めている方がいらっしゃるかもしれない。

 実際、史実でも孔融は曹操の怒りを買って処刑されている。では、彼はどうして曹操の怒りを買ったのだろうか。なぜ、処刑されなければならなかったのだろうか。決して長くはない彼の生涯から紐解きたい。

 

兄弟に大きな梨を譲った幼少期の美談

 孔融は早熟だったようだ。伝承によれば、彼には5人の兄と1人の弟がいた。7人兄弟の下から2番目である。孔融が4歳のある日、父親がたくさんの梨を買ってきてお盆に乗せた。当時、果物はちょっとした贅沢品。兄たちは大変に利発な孔融を可愛がっていたので、先に「お前が先に取りなさい」と譲った。すると、孔融は盆の梨の中から一番小さなものを選び取った。

 それを見ていた父が、後で「どうして一番小さい梨を選んだ?」と聞くと、孔融は「私は年下なので、兄たちに大きいものを食べてほしかったのです」と答えた。父は「でも、お前には弟もいるだろう?」、すると孔融は「私は兄なので、弟にも大きな梨を譲るべきなのです」といった。それを聞いた父はたいそう喜んだという。この逸話は「融四歳、能譲梨」(孔融、4歳にしてよく梨を譲る)として、古くから中国に伝わっている。

 10歳を過ぎたころには、老子の末裔とされる李膺(りよう)という高名な人物に面会し、その聡明さを高く評価されたという。このように、孔融は幼い頃から大人を感心させるほどの才能を持っていたようだ。

 

曹操のもとで「建安の七子」として名を成す

 幼くして才を見込まれ、それに孔子の末裔という血筋の良さも手伝って、孔融が世に出るのに時間はかからなかった。長じてのち、朝廷から青州(現在の山東半島)の刺史(しし)に任ぜられた。刺史とは皇帝直属の地方行政官で、今の日本でいえば県知事の補佐といったようなポジション。青州は当時、「黄巾の乱」によって荒れ果て、有能な統治者が待ち望まれていたのである。

 ところが統治者としての孔融は、さほど高く評価されなかったようだ。「荒れ果てた山東地域を支えた」「儒学を大いに広めた」といった声がある一方、… 続きを読む

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上永 哲矢

上永 哲矢

歴史コラムニスト、フリーライター

各種雑誌・ムックに歴史や旅の記事・コラムを連載。戦国時代や幕末など日本史を得意分野とするほか、三国志歴30年以上の愛好家としてイベント・講演の企画運営や、三国志関連本の制作にも関わっている。神奈川県横浜市出身。「オフィス哲舟」代表。公式サイト:http://kakutei.cside.com/job/

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