上永哲矢の「三国志、歴史を変えた決断」(第42回)

邪道の軍師・ホウ統、死して「天下三分」実現に導く

2016.12.20 Tue連載バックナンバー

 「この地方には、臥龍(がりょう=寝ている龍)と鳳雛(ほうすう=鳳凰のヒナ)なる者たちがいる」、「臥龍と鳳雛、いずれかを得れば天下を安んずることもできよう」といわれたように、荊州の襄陽(じょうよう、現在の湖北省襄陽市)には、ふたりの俊才がいた。臥龍と称された諸葛亮に対し、鳳雛と称されたのが、ホウ統(ほうとう)である。

 

最初は「人事部長」として世に出る

 ホウ統と諸葛亮はともに襄陽に住み、青年期を過ごした間柄だった。年齢も2歳違い(ホウ統が年上)、将来を期待された若者同士、交流もあったようだ。ところが、ふたりは対照的な形で世に出る。まず諸葛亮は27歳のころ(207年ごろ)、荊州にやってきた劉備に「三顧の礼」で迎えられ、その軍師となる。一方のホウ統は30歳を過ぎたころ、この地方の太守として赴任してきた孫権軍の周瑜にスカウトされ、遅咲きのデビューを飾った。

 いわば、「鳴り物入り」で迎えられた諸葛亮は、すぐに劉備軍の外交官を務めるなど早くから頭角を現していた。それに対し、ホウ統には軍事的な活躍の場はなく、南郡(なんぐん、現在の湖北省荊州市一帯)の役所勤務である。ホウ統は正史『三国志』に「生まれつき地味で素朴」と記述されているように、自己アピールが苦手だったのかもしれない。

 だが、流石といおうか。郡太守(郡の長官)の周瑜や、その同志である魯粛は早くからホウ統の才能に注目していた。彼に人事や賞罰の権限を持つ功曹(こうそう)という重要な職を与えたのだ。ひとまず、ホウ統を荊州を治めるにあたっての秘密兵器として温存しておき、ゆくゆくは重く用いることも考えていたのかもしれない。

 その期待に応え、ホウ統はうまく人を使った。また、しばしば当人の実力以上の評価を与えたという。彼の査定に疑問を感じた人がその理由を尋ねるとホウ統は言った。「10人を選び、そのうち5人が失敗したとしても良い。やる気がある者に努力させられるのだ。大げさに褒めてやっても良いではないか」と。いわゆる「褒めて伸ばす」のが、彼の人材活用方針だったのだろう。

 それから1年が過ぎた210年、周瑜が病死する。その亡骸を孫権の陣営まで送り届けたのがホウ統であった。生前、周瑜と親しくしていたホウ統ならではの役目であったに違いない。無事に役目を終えてホウ統が南郡へ帰る時になると、多くの者が見送りに来たという。周瑜にも一目置かれたホウ統の政治能力は、孫権陣営にまで伝わっていたのだ。だが、彼の名声が本当の意味で高まるのは、もう少し先のことであった。

 

劉備に信用されず「クビ」になってしまうが…… 続きを読む

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上永 哲矢

上永 哲矢

歴史コラムニスト、フリーライター

各種雑誌・ムックに歴史や旅の記事・コラムを連載。戦国時代や幕末など日本史を得意分野とするほか、三国志歴30年以上の愛好家としてイベント・講演の企画運営や、三国志関連本の制作にも関わっている。神奈川県横浜市出身。「オフィス哲舟」代表。公式サイト:http://kakutei.cside.com/job/

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