上永哲矢の「三国志、歴史を変えた決断」(第40回)

漢の幕を下ろした潔い引き際、最終皇帝・献帝の決断

2016.10.17 Mon連載バックナンバー

 紀元前206年、漢(かん)という国をつくった劉邦(りゅうほう)という人物がいる。彼のことは、司馬遼太郎の『項羽と劉邦』などの影響もあって、日本にも知る人が多い。その劉邦以来400年近く続いた漢王朝に、滅亡の危機が訪れた頃が、いわゆる後漢(ごかん)末期。すなわち三国志の時代の幕開けである。

 

9歳にして、長い傀儡人生のスタート

 西暦189年の春、後漢の12代目・霊帝(れいてい)が34歳の若さで亡くなった。息子が2人おり、劉協(のちの献帝)は9歳の次男坊であった。帝位は、とりあえず順当に兄の劉弁(りゅうべん=17歳)が継ぎ、劉協はそのまま王族として少年時代を過ごすはずだった。が、時代は風雲急を告げる。霊帝が死んだその年も改まらないうちに、朝廷では皇族と役人たちの権力抗争が起き、そこに豪族たちも加わって大殺戮劇が繰り広げられたのだ。

 やがて、その抗争を制したのが董卓(とうたく)である。董卓は劉弁を無理やり皇帝の椅子(玉座)から引きずりおろし、劉協を帝位にすえた。後漢の第14代・献帝の誕生である。とはいえ、まだ9歳。右も左もわからない。ここから、劉協の傀儡(かいらい)としての長い人生がスタートするのである。

 3年後、董卓が呂布に討たれ、その呂布も董卓の残党たちに都(長安=現在の西安)を追われた。都は董卓の残党たちが牛耳り、治安は乱れ放題となり、皇帝である劉協の身も危うい状況だった。劉協は家臣たちに連れられて都を脱出するが、行きついた先は食べ物もなく、廃墟同然の場所だった。

 皇帝とて生身の人間。食うものも、風雨をしのげる場所もない状態では、野垂れ死ぬしかない。実際、この時の劉協主従の行方を知る者はごく限られ、諸侯たちの多くはその安否も知らない有様だった。「献帝は行方知れず、漢はもう終わった」ともささやかれたはずだ。後に袁術が皇帝を自称するのも、そんな風評に乗ってのことである。

 

サバイバル生活を送るも、曹操に保護され……

 そうしたさなかの西暦196年、救世主が現れた。曹操である。曹操は、黄河の南流域地方で急激に勢力を伸ばしていたが、献帝(劉協)が健在であるとの情報をキャッチし、すぐさま救援の軍勢を差し向けたのだ。サバイバル同然の生活を送っていた劉協一行は曹操の保護のもと、許(きょ=現在の河南省許昌市)に移住した。皇帝がいる場所こそが首都。許は以後、許都(きょと)と呼ばれるようになる。曹操は劉協を丁重に扱い、窮地を救われた劉協も曹操にいたく感謝し、当初の両者の関係は良好だった。

 しかし、権力者とは並び立てないものだ。わが国の足利義昭織田信長や、徳川家康豊臣秀頼さながらに、曹操と献帝も対立を始める。劉協の周辺には、… 続きを読む

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上永 哲矢

上永 哲矢

歴史コラムニスト、フリーライター

各種雑誌・ムックに歴史や旅の記事・コラムを連載。戦国時代や幕末など日本史を得意分野とするほか、三国志歴30年以上の愛好家としてイベント・講演の企画運営や、三国志関連本の制作にも関わっている。神奈川県横浜市出身。「オフィス哲舟」代表。公式サイト:http://kakutei.cside.com/job/

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