上永哲矢の「三国志、歴史を変えた決断」(第39回)

大胆不敵!妙計で敵の包囲を突破した快男子・太史慈

2016.09.16 Fri連載バックナンバー

 太史慈(たいしじ)といえば、三国の一角・呉の基礎を築いた孫策と堂々の一騎打ちを繰り広げ、約束の刻限までに兵を連れて戻ったエピソードを持つ快男子である。今回は孫策と出会うまでの前半生に注目し、その中で彼がいかなる決断を下したかを綴りたい。

 

包囲中の城へ飛び込み、恩人を助けに行く

 朝鮮半島の西方、海を隔てて向かい合う中国の山東半島には、今はビールで有名な青島(チンタオ)がある。その青島の近くに、かつて東莱郡(とうらいぐん)という地方都市があり、太史慈はそこで生まれた。体格に恵まれ、大人になると身の丈七尺七寸(180cm弱)の偉丈夫(いじょうふ、背が高くたくましい男)になった。

 武芸に長け、特に弓の腕前に優れたという。これは後年のことだが、山賊を討伐に行ったときに遠くの砦の上にいる賊を黙らせようと矢を放った。賊は柱に手を触れていたが、その手の甲が射抜かれて柱に刺さり、動けなくなったとの逸話が残る。太史慈は、そこを狙って撃ったのだ。三国志の登場人物の中では、呂布に匹敵する弓の腕前を持っていたといえよう。

 武芸だけでなく学問も好んだため、やがて東萊郡の役所へ務めに出た。ある時、郡と青州(今の山東省)の間で揉め事が起きる。郡の意見書を提出する役目を担った太史慈だが、職務への忠実が行き過ぎて、州の意見書を破ってしまった。そのため、州の役所に目を付けられる羽目になり北方の遼東郡(りょうとうぐん)へと逃れ、しばらく身を隠すことになった。郷里を留守にする間、彼の母を面倒みたのが孔融(こうゆう)という人物だ。孔融は青州一帯の統治者であり、孔子の末裔といわれる文化人でもあった。面識はなかったが、孔融は太史慈をひとかどの人物と見込み、彼の母を世話したのである。

 西暦192年、帰郷した太史慈は、母からその話を聞いて孔融の居城へと向かった。太史慈は、この年27歳。そろそろ功名を立てなくてはならない。孔融の城はちょうど、黄巾党の残党らに包囲されている真っ最中。母が受けた恩を返すには絶好の機会である。賊軍の包囲は厳しかったが、太史慈はわずかな隙を見つけて城内へ潜入し、ようやく孔融に礼をいうことができた。

 籠城中の城内は混乱していた。「我々だけで賊を防ぐのは難しい。平原の統治者・劉備どのに応援を頼もうと思う。だが賊の包囲が固く、城外に出られないのだ」という孔融。それを聞いた太史慈は… 続きを読む

全文(続き)を読む

続きを読むにはログインが必要です。

まだ会員でない方は、会員登録(無料)いただくと、続きが読めます。

連載記事

三国の勝利者・司馬懿、50歳からの覚醒で天下を奪う
上永 哲矢

上永 哲矢

歴史コラムニスト、フリーライター

各種雑誌・ムックに歴史や旅の記事・コラムを連載。戦国時代や幕末など日本史を得意分野とするほか、三国志歴30年以上の愛好家としてイベント・講演の企画運営や、三国志関連本の制作にも関わっている。神奈川県横浜市出身。「オフィス哲舟」代表。公式サイト:http://kakutei.cside.com/job/

このページの先頭へ
Bizコンパス公式Facebook Bizコンパス公式Twitter