上永哲矢の「三国志、歴史を変えた決断」(第38回)

三顧の礼を演出した徐庶、苦渋の決断で劉備軍を去る

2016.08.11 Thu連載バックナンバー

 たった数日、あるいは数ヵ月を一緒に過ごしただけなのに生涯忘れられない。友人でも仕事関係でも、誰しもそんな人が一人や二人はいるだろう。三国志の主役のひとり、劉備にとって、徐庶(じょしょ)はそうした存在だった。小説の影響から「軍師」として名高い徐庶だが、まるで任侠映画の主人公のような前半生を過ごしている。

 

達人と見込まれ、知人の仇討ちを行なう

 中国の中心部に近い予州潁川郡(よしゅう えいせんぐん=現在の河南省許昌市)は、「黄巾の乱」で激戦地となったことで知られる。その潁川に生まれた徐庶は豪族や貴族ではない、単家(ぜんか)と呼ばれる平民の出だった。生活は楽ではなかったと思われる。

 それだけに、身を立てるには武芸が大事と考えたのか「撃剣(げっけん)」の稽古に励み、やがてはその使い手として名を知られるようになった。「撃剣」とは、日本では木刀や竹刀での稽古を示す言葉だが、古代中国ではナイフのように投げて用いる武芸の呼び名であったと推測される。

 加えて任侠を好んだという。任侠とは義理に厚く、困っている人を進んで助け、施された恩に報いることを表す。それを好んで行なう人のことを侠客とか侠者と呼んだ。わが国でいう国定忠治や、清水次郎長のような存在か。決して単なるヤクザやチンピラを表す言葉ではないが、それに近い荒んだ生活を送っていたのかもしれない。

 ある日、徐庶はその腕前を見込まれ、人の仇討ちをしたという。そのために「お尋ね者」となり捕まってしまった。一向に口を割らないため、役人は徐庶を柱に縛りつけ、街中で彼を知る者がいないか呼びかけた。しかし、彼を慕う者は多く、誰も名乗り出なかった。そのうち、拘束されていたところを友に助け出されて逃走に成功する。

 この一件に思うところがあったのか、それからの徐庶は… 続きを読む

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上永 哲矢

上永 哲矢

歴史コラムニスト、フリーライター

各種雑誌・ムックに歴史や旅の記事・コラムを連載。戦国時代や幕末など日本史を得意分野とするほか、三国志歴30年以上の愛好家としてイベント・講演の企画運営や、三国志関連本の制作にも関わっている。神奈川県横浜市出身。「オフィス哲舟」代表。公式サイト:http://kakutei.cside.com/job/

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