上永哲矢の「三国志、歴史を変えた決断」(第37回)

36万人もの反乱軍を動員した大教団のカリスマ・張角

2016.07.23 Sat連載バックナンバー

 三国志の時代の幕開けを告げる、西暦184年に起きた民衆たちの反乱「黄巾(こうきん)の乱」。その36万人の反乱軍を率いていたのが張角(ちょうかく)という人物だ。わが国の「一向一揆」や「島原の乱」を、さらにスケールアップさせたような規模の軍勢を動員できた張角とは、いったいどんな男だったのだろうか?

 

人々を救いたい、その一念で信仰の道へ

 張角の出自は定かではないが、おそらく平民の生まれではないかといわれている。張宝(ちょうほう)、張梁(ちょうりょう)という弟がおり、兄弟3人で貧しい暮らしをしていたようだ。出身地は河北の鉅鹿(きょろく)郡で、後に袁紹(えんしょう)が拠点とするギョウの近く、都の洛陽からはかなり北東に離れている。

 当時の王朝、漢帝国では皇帝の力が弱まり、都・洛陽の朝廷は私欲に満ちた官僚たちが権力争いに明け暮れていた。民衆は重税に苦しみ、貧しい生活を余儀なくされ、その日を生きるので精一杯のありさま。またこの地方では黄河の氾濫に悩まされ、疫病や飢饉に苦しむ人が昔から絶えなかった。

 張角たちは、そうした世の中を変え、人々を救済したいと考えるようになる。小説『三国志演義』によれば、政治に活路を見出そうとしたのか、学問に打ち込むも登用試験に落第している。かろうじて地方役人になれそうな程度の学力は得たが、そんな程度では世を変えることはできないと考え、別の道を模索し始めたようだ。

 張角が活路を見出したのは「信仰」であった。当時、山東地方(中国の東部)に神聖な水や御札を用いる于吉(うきつ)という道士がいた。于吉は病に苦しむ人々を祈祷によって治癒させたことから仙人のように崇められる存在だった。張角は、于吉が用いていた『太平清領書(たいへいせいりょうしょ)』という教本の写しを手に入れる。根本的な教えは、黄帝(中国を最初に統治した伝説上の皇帝)を尊び、老子(古代の哲学者)の思想に学び、善行を行なうというものである。張角はその教えを実践しながら独自の教義へと発展させ、「太平道(たいへいどう)」を編み出す。

 やがて「救いの道」を説く張角に興味を示し、共感する民衆が現れ始める。張角はまた、于吉と同じく病人に聖水を振りかけ、御札を燃やしてその灰を飲ませ、「まじない」を行なって治した。現在でいう「プラセボ効果(偽薬効果)」のようなものかもしれない。懺悔(ざんげ)させることで、苦悩から解放したり、祈祷で雨を降らせたりもしたという。こうして多くの人が張角の「信者」となっていった。

 こうして「カリスマ」化した張角は、自らを大賢良師(たいけんりょうし)と称し、やがて有能な弟子たちを各地へ派遣し、「太平道」をさらに世へ広めていく。ネズミ算式に信者は増え、その数は10年ほど経つと数十万人にも達した。人々がいかに朝廷に失望し、「救世主」の存在を待ちわびていたかが分かる。

 

36万の信徒が集まり、ついに立ち上がる

 時は来た。張角はついに決断する。今までに集めたこれらの人々を動かせば、朝廷を打倒し、この乱れた世を正すことができる。各地の弟子たちに命じ、1万人を1グループにして合計36万の軍勢が各地で決起できるよう準備させた。

 張角の集団は「黄巾党」を名乗り、「蒼天(=漢帝国か?)すでに死し、黄天(=黄巾党)まさに立つべし。歳は甲子(かっし)にあり。天下は大吉ならん」というスローガンを叫んだ。張角が「黄色」を選んだ理由は諸説あるが、黄帝への信仰および、中国では伝統的に尊い色である黄色の頭巾をつけ、結束させたものと思われる。またスローガンは、今の世の中を「すでに死んだもの」とし、自分たちが変えてやろうとの決意からである。

 ところが、計画はその矢先につまずいてしまった。… 続きを読む

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上永 哲矢

上永 哲矢

歴史コラムニスト、フリーライター

各種雑誌・ムックに歴史や旅の記事・コラムを連載。戦国時代や幕末など日本史を得意分野とするほか、三国志歴30年以上の愛好家としてイベント・講演の企画運営や、三国志関連本の制作にも関わっている。神奈川県横浜市出身。「オフィス哲舟」代表。公式サイト:http://kakutei.cside.com/job/

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