上永哲矢の「三国志、歴史を変えた決断」(第3回)

三国志版・天下分け目の決戦!10倍の敵を破った曹操

2014.11.06 Thu連載バックナンバー

 わが国において「天下分け目の決戦」といえば、西暦1600年に行なわれた「関ヶ原の戦い」が有名だが、それより1400年前、中国でも天下を二分するような戦いがあった。

 西暦200年「官渡(かんと)の戦い」である。

 

西暦200年、袁紹と曹操の一大決戦が行なわれた

三国志3-1 当時、中国北部の河北地方に袁紹(えんしょう)という群雄がいた。大変な名家の出身で、その豊かな経済力と名声を背景に強大な勢力を誇っていた。これに対するは当時、河南地方を制圧したばかりの曹操(そうそう)である。彼は都の官僚出身ではあったが、さほどの経済基盤も持たず、いわば実力で成り上がった新興勢力だった。

 よって両者の兵力には大きな開きがあった。その正確な数は不明だが、およそ10倍の差があったという(小説『三国志演義』では袁紹軍70万、曹操軍7万)。いわば超巨大企業と中小企業の対決というべきで、これほどの差があったら並の人物であれば戦になる前に降伏してしまうところだ。

 しかし、このとき曹操には大変な強みがあった。皇帝(献帝)を保護し、自分の領地に迎え入れていたことだ。曹操はいわば「官軍」として堂々、袁紹との決戦に臨んだのである。一方、袁紹軍としては「曹操の手に落ちた皇帝をお救いする」という意気込みを持ってこの戦いに臨んでいた。

 さて、黄河を挟んで対峙し、激突した両軍。はたして戦局は数で圧倒的に勝る袁紹軍が優位に立った。曹操軍は緒戦で部将の関羽と張遼(ちょうりょう)が、袁紹軍の顔良(がんりょう)を討ち破るなど、局地戦では幾度か勝利を収めるも、戦局を大きく好転させることはできず劣勢は否めない。次第に持久戦となり兵糧も残り少なくなったことで、さすがの曹操も弱気になって撤退を考え始めていた。

 

敵の参謀がもらした一言から、一気に勝機をたぐり寄せる… 続きを読む

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上永 哲矢

上永 哲矢

歴史コラムニスト、フリーライター

各種雑誌・ムックに歴史や旅の記事・コラムを連載。戦国時代や幕末など日本史を得意分野とするほか、三国志歴30年以上の愛好家としてイベント・講演の企画運営や、三国志関連本の制作にも関わっている。神奈川県横浜市出身。「オフィス哲舟」代表。公式サイト:http://kakutei.cside.com/job/

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